龍の休息

 古代中国の人々は、天空の変化の原因を龍の動きのせいだと考えた。雲、雨、雷や風もそうだ。「風」という文字の内部の「虫」は龍のことで、「鳳」+「虫」で「風」なった。また「虹」も一種の龍と見たため、「虫偏」なのである。
 同じようにヨーロッパではドラゴンを考え、インドではコブラの親玉のようなナーガを産みだした。いずれも天候を制御する能力をもつが、三者の位置づけはかなり違う。ドラゴンはサタンの使いだから制御すべき敵なのに対し、ナーガは釈尊が悟りを開く際に守護したとされるため、仏法の守護神とされる。しかも『法華経』に登場する「八大龍王」は本来ナーガのはずだが龍と同一視され、中国化した。龍もナーガも仏法の守護神なのだしいいだろうと思うかもしれないが、両者は翻訳によって必要以上に同化してしまった。
 あまりうるさいことを申し上げる気はないが、一応ドラゴンにはある翼が龍にはなく、ナーガが七本の首はなぜか中国の龍信仰と習合して八人の龍王になり、また日本の龍神などにも変化した。そうした変遷については認識しておいていただきたい。特に龍とドラゴンの混同は、ドラゴンズ・ファンだとしても許すべきではあるまい。
 さて、この三者、気候の変化の原因として創造されたことは共通している。しかし龍やナーガは祈るべき相手だが、ドラゴンは敵対してコントロールすべき相手。この見方の違いが、そのまま東洋と西洋の自然観の違いにもなる。
 このところ、京都の禅宗の大本山が、揃って法堂(はっとう)の天井などに龍の絵を掲げている。また上野の寛永寺でも、二〇二五年の開創四百年を記念し、根本中堂に龍の天井絵が奉納されるらしい。
 いったいなにゆえ龍がこれほど大切なのか。辰年を迎えるに当たって少々考えてみたい(辰と龍は本来あまり関係がないが)。
 龍は自然の象徴と言っていい。つまり人間には制御できないものだ。古代の日本では、どうも雷こそエネルギーの源と考えられたらしく、それが「ピカリ」という光を伴って雷鳴と共に山に入り、やがてそのパワーによって噴火や地震、津波が起こる。
 当時地震のことは「那為(ない)」と呼んだが、意味するのは「あの()()さること」。つまり神の仕業ということだ。日本は世界で唯一「大穴牟遅神(オオナムチの神=大穴もち)」という噴火口の神がいる。そして我々に出来るのはただ祈ること。「為合」は「しあわせ」と()まれ、運命と同じ意味だった。
 仏教と共に将来された龍は、そんな神々の代役も果たした。法鼓(ほっく)という太鼓の外側を擦って雷鳴を表し、更に皮の中央を叩いて龍を招く。龍に祝福してもらえなければ全てはうまくいかない。呼ばれた龍は天井に現れ、仏教儀式を見守って圓成に導くのである。
 しかし思えばこうして天井に現れた龍が、そのまま居坐るのも如何なものだろう。本来、龍は冬になると泉に潜んで休息するとされ、潜龍、伏龍などと表現される。だから冬の空には龍の足跡(雲)が少なくなるのだ。もしや天井に龍が常時居るせいで、異常気象なのではないだろうか。
 今の技術なら、入道雲の雲龍図から次第に鰯雲に変わり、龍の姿もだんだん薄れ、冬にはいなくなってしまう、なんてことも出来るのではないか……。「それは不自然」と言われるかもしれないが、「不自然」はいつだって「自然」に繰り込まれ、「自然」は遂に掴まえきれない。
 最後に、龍は自分のなかに棲んでいる、という見方も紹介しよう。じつはブータン国王夫妻が東日本大震災後の福島県を訪れた際、相馬の小学生に次のように語った。「君たちの中には一匹ずつ龍が棲んでいます。龍は苦しみや悩みを食べて大きくなります。どうか君たちの中の龍を、大きく大きく成長させてください」。
 ああ、この考え方だとやはり龍に休息はないのだろうか。しかしそれでもやはり、私としては龍に休息できる安寧な日々を願いたい。

月刊「うえの」 2024年1月号