このたび朝日出版社から、『桃太郎のユーウツ』という小説集を上梓した。中短六作から成る作品集だが、通常の作品集のように連作ではないし、掲げた通しテーマがあったわけでもない。ただ全体を通読したとき、総タイトルは『桃太郎のユーウツ』だと、すんなり思えた。その辺の思いをそぞろ書いてみたい。
桃太郎とはいったい誰なのか、それは高校時代からずっと気になっていた。正直に言うと、私は高校生の頃友人二人と密かに「桃太郎研究会」なる同好会をつくり、放課後の教室で各種「桃太郎」を読み比べ、議論などしていたのである。
各種「桃太郎」などと聞けば、あるいは首を傾げる方もおいでかもしれない。しかし各地各時代の「桃太郎」を読み比べると、相当に違っている。桃がどんぶらこと流れてくるのは一緒でも、その桃をお婆さん独りで食べてしまう話もあった。そこでは桃が回春剤となり、お婆さんが鬼っ子の如き桃太郎を身籠もるのだ。
また戦争の時代になると、犬猿雉の位置づけも変わる。当初はきび団子を貰って「仲間」になったのだが、明治の頃からは「家来」になり、桃太郎も間違いなく陣羽織を着るようになる。
同好会の友人と共に目を瞠ったのは、福沢諭吉が自分の子供に渡したとされる家訓「日々のをしへ」の一節だった。「桃太郎が鬼ヶ島に行きしは、宝を取りに行くと言へり。けしからぬことならずや」
諭吉は、宝の現在の所有者が鬼で、しかも大事にしていたのだから、訳もなくそれを奪うのは盗人に等しいと言う。鬼が実際に悪事をする場面を見たのならともかく、ただ鬼だからというだけで宝を奪い、しかもそれをお爺さんお婆さんにあげるなど、欲のために仕事で「鬼劣千万」だとまで言うのである。
おそらくその影響だろう、戦後の民主主義時代になると、鬼から奪った宝を元の所有者に返す「桃太郎」まで現れる。
桃太郎は、初めは各地でさまざまに脚色して語られるほどのヒーローだった。そして全体としては間違いなく時代の申し子なのである。その意味ではダライ・ラマという制度のように、輪廻を繰り返して死なない存在と言えるだろう。
ところで桃太郎は、当然ながらその時代の正義である。もっと言えば、時の政権にとっての正義と言える。この作品を書いたのは第二次安倍政権当時。ご承知のように原発再稼働を進め、今に続く新型原子炉の開発を始めた時代である。これほどの地震国で、しかも東日本大震災を経ながら、なおも原発にこだわる総理が福島県民には鬼に見えた。
しかし鬼を決めるのは時の政権だから、当然翻意して原発反対を訴える元総理のほうこそ鬼に違いない。元総理は論語を引用し、「過ちて改むるに憚ること勿れ」と繰り返し述べ、処理できない廃棄物を増やしつづけることの愚かさを訴えた。かつて自分が進めた政策は頑丈な棚に上げてである。
私は元総理と同じ会場で講演したことがある。むろん控え室ではご挨拶もした。熱を帯びた歯切れのいい話に聴衆は聴き入った。そのとき私は、警備の手薄さに気づいたのである。きっと私のなかにはすでに桃太郎が棲みついていたのだろう。あれほど原発を推進した人が今更、という思いが払拭しきれず、もしも組織から鬼征伐の指令が来たらどうするか、私は桃太郎になりきって迷っていた。
この話の主人公、つまり佐藤桃太郎を福島県民にしなかったのは、おそらくその迷いに揺れさせないためだ。雉(情報)猿(ブレイン)犬(行動力)を従えた桃太郎に失敗は許されないのである。
ところで私の桃太郎はなにゆえユーウツなのか。
それはまず、鬼が鬼らしくないからだ。原発推進を「反省」した元総理の「今」は、個人的には容認したい。「過ちて改むるに憚ること勿れ」は、じつは桃太郎自身が幼時から叩き込まれた孔子先生の教えなのだ。だからこそ、除染という果てしない作業で着実に怨みを涵養する必要があった。結果は読んでのお楽しみだが、少なくとも「ユーウツ」を吹き飛ばす結果になることだけは保証したい。
じつはこうしたユーウツは、他の物語にも潜伏している。「セロファン」には僧侶としての現場で時に悩まされる。柩の窓に貼られたセロファンは、間違いなくガスバーナーで点火された際、最初に溶け落ちて遺体の顔に落ちるはずだ。しかしユーウツなのは、そのことが本作のように咎められることは滅多にない、ということだろう。故人と親族との関係次第、あるいは親族側の感性の問題と言えなくはないが、現実にはドライアイスの効果を高めるという葬儀屋の説明に、すんなり納得するのが大人社会のようなのだ。そんなユーウツを解消するため、火葬場での最後のお別れ前に外せる仕組みを考えてみるのだが、それを必要とするケースがどれほどあるかと思えばユーウツは更に深まる。
「聖夜」と「火男おどり」の背後には、東日本大震災の根深い災厄が横たわっている。前者では、見えない放射能によるユーウツな時そのものを描いたつもりだが、それから五年後に書いた後者では、故郷を追われた避難民の鬱屈した日々に主題は変奏する。ユーウツで孤独な時が老人のなかに積み重なり、ある種自棄とも思える爆発的なエネルギーを産みだすのだ。音楽が陽気なほどに悲哀はつのる。しかしいったい、この老人は鬼なのか桃太郎なのか、国に翻弄される市井の人々は、普段は鬼を潜めつつ桃太郎を演じるしかないのだろうか。七福神の踊りがここでは鬼の現れなのだ。
正面から自分のなかに鬼を見据えよう、そう思って書いたのが「うんたらまんかん」である。間違った真言ダラニは、死んだ父の置き土産。その父の数奇な人生が、山奥の寺で息子に語られる。息子は京都の御山で修行した僧侶、相手は長年その寺の留守居をしてきた義理の伯父。そして語る者と語られる者双方が、自身のなかの鬼に出逢うのである。鬼はおそらく誰のなかにも潜み、多くは眠っているが、一旦目覚めて現れると再び眠らせることは難しい。できるのはただ、宥めることくらいではないか。ダラニには音の響きで心を調え、宥める力がある。そのことを、私は書きながら再認していた気がする。
その意味では鬼を宥めるのではなく、排除しようとする近未来社会が「繭の家」の世界だろうか。しかし鬼と仏の識別は難しく、社会からは生気(アニマ)そのものが奪われかねない。まだ終わらないコロナ禍のなかで、人々はhappeningを排除し安全安心を確保しようとする。しかしhappeninngがなくなればhappyにもなれない。両者は共通の語根で通底しているのだ。混沌こそ鬼と仏の始原と言えるだろう。
こうして桃太郎から鬼、ユーウツから鬼へと話が推移していくなかで、標題はおのずと『桃太郎とユーウツ』に決まっていた。標題には直接含まれないが、あえて通しテーマを立てればむろん鬼である。しかも桃太郎をユーウツにさせる鬼でなければならない。私はすぐに表紙絵として川鍋暁斎の鬼を憶いだした。奉加帳をぶらさげ、念仏を称える鬼である。
ロシアやウクライナに続き、中東でも大量の鬼が発生している。もはや桃太郎は、そこでは鬼の生産装置にすぎない。鬼を宥める力は、今や鬼自身の微かなためらいにしか期待できないのではないか。それを期待させる鬼の逡巡と愛嬌とを、私は画鬼暁斎の鬼に見たのである。
朝日新聞 「一冊の本」