先日、双葉町の東日本大震災・原子力災害「伝承館」で、二日にわたる興味深い催しに参加した。初日は伝承館の上級研究員である開沼博さんと私との対談、そして夜の懇親会を挟み、二日目は参加者も交えた全員の「対話」である。開沼さんとの対談はたぶん四回目だし、白紙の状態で向き合いながらお互いの思いを汲みつつ深まったと思う。テーマは「言葉・記憶・開放性」で、開放性までは行き着かなかったものの、浮上した「忘却」についての議論が、もしかしたらそこに
繋がっていたのかもしれない。
対談の冒頭に開沼さんが話したのは、「冗長さ」を大事にしたいということ。いったい、「冗長」という言葉が肯定的に使われる機会に接したことがあるだろうか……。世の中は確かに効率優先で結論ばかり急ぎたがる。処理水の処分法についても、充分な「対話」がなされることなく、菅政権によって結論だけ告げられ、「聞く力」があるはずの岸田政権も、それに輪を掛けた拙速な閣議決定を連発している。
もしやこれは、無謀な上意下達を繰り返す政権への、密かなプロテストではないか。そう思いながら、私は「冗長」な親睦会も楽しんだのである。正直に言えば、私は未だ終えていない葬儀を抱えていた。一泊して懇親会に出ている場合ではなかったのである。しかし今回の催しは、どうもこの「冗長さ」じたいがテーマなのだ。美味しいアンコウ鍋もあったし、私はすっかり「冗長」な懇親を楽しむことにした。思えば「冗長さ」とは、人生そのもの。言葉で割り切れない豊かな実時間の経過のことではないか。
翌日午前中は開沼さんの案内で双葉、大熊、富岡の各地を経巡った。夜ノ森駅前では廃屋をつぶさに眺める機会もあり、実地見聞の大事さをしかと感じた。やがて参加者たちは、会ったこともない住人の震災前の暮らしまで想像していたのである。
二日目の午後は、伝承館常任研究員の葛西優香さんが見事に進行はしてはくださったものの、やはり結論は求めないランダムな対話が続いた。聴衆はおらず、参加者全員で「伝承」について話し、グループに分かれて話、更にはグループメンバーを入れ替えてまた話し、最後にまた全体に戻った。高校生の男女も参加し、じつに充実した「対話」が叶ったと思う。もとより結論は求めない「冗長」な対話だから、水脈を求めてみんな大地を掘り進め、全員が水の匂いを感じたくらいだろうか。処理水問題ばかりでなく、合意へと向かう粘り強い知力はこうして養うのだと、実感した二日間だった。
初日だけ来てくれた複数の新聞記者の一人が、「要するにどういう催しか」と訊いてきたのが忘れられない。「要するに、とまとめない対話です」と答えたのは言うまでもない。
福島民報 2023年1月29日