死んだら死んだで生きてゆくのだ。

 草野心平さんと聞けば、やはり蛙を憶いだす。たしか大学生の頃に国立劇場で声明(しょうみょう)の会があり、そこで高野山の僧侶による「かえるの歌」を聞いた。これがあまりに衝撃的だったのである。
 そのとき比叡山の僧たちは伝統的な声明を唱えたのだが、むしろ「かえるの歌」のほうが鮮烈に、声明のなだらかな音階の変化と音の連なりの魅力を感じさせた。
「なみかんた りんり。なみかんたい りんり もろうふ ける げんけ しらすてえる。けるば うりりる うりりる びる るてえる」。
 「ごびらっふの独白」のかなのこんな科白が、数十人の僧侶たちの声で響きわたるのだ。日本語訳によれば、「みんな孤独で。みんなの孤独が通じあうたしかな存在をほのぼの意識し。うつらうつらの日をすごすことは幸福である」という意味らしいが、むろん声明を聞いてそんな細かい意味などわかろうはずもない。
 しかしその後心平さんの詩集を読みだしてみると、その殆んどが「まるでお経」だと気づいたのである。お経といっても陀羅尼と呼ばれ、インド伝来の音を変えないままの真言である。意味よりはむしろ音の連なりがその都度ある種の気分へと人を運ぶ。まるで全体が網の目のように、唱える人も聞く人も包み込む。それはインド音韻学の成果なのだが、きっと心平さんは蛙の声を聞きながら無意識にそこに辿り着いたのだろう。
 また「百姓という言葉」という詩では、「個と連帯」「個と相互扶助」などと謳われる。それは声明の特徴でもあるが、仏陀の説く「縁起」にも重なる。おそらくこれも無意識なのだろうが、『華厳経』の説く「多即一」「一即多」の世界……。つまり心平さんの詩の多くは、歌い方もその主張も「まるでお経」なのである。お経とは距離のあった学生時代だが、私は意外なとことでお経の力を再認識した。
 心平さんの名前は、その後「天山祭り」の主人公として何度か聞いた。たぶん夏休みの帰郷中、友人の何人かが天山文庫に行くと連絡を寄越し、川内村は関東からあまりに遠いため、うちの寺を中継点にしたいと宿泊を頼まれたのである。友人の一人は祭のあとも寺に寄ってその楽しさを語っていった。やはり「個と連帯」の話だったと思い返す。聞けば天山文庫じたい、村の人々の労働奉仕でできたらしく、それは村ぐるみの連帯、そして個性発露の場であったようだ。
 残念ながら私自身は心平さんにお目にかかる機会を持てなかった。私が修行道場から寺に戻ったその年の晩秋、心平さんは八十五歳で鬼籍に入られた。
 しばらくして私は時々詩集を読み、また『草野心平 わが青春の記』なども読むようになった。誰の青春もそうかもしれなが、そこには大雑把だが繊細で、無計画なのに拘りの強い、無頼とも言うべき日々が描かれていた。高村光太郎や中原中也、萩原朔太郎や金子光晴も登場する。じつに刺激的な交友録でもあるのだが、面白かったのは心平さんが東京で屋台のやきとり屋をした(くだり)である。じつは私も新宿近くで屋台のおでん屋をしていたことがあり、奇妙な符号を感じたのである。また同書「詩への絶望」と題した文章には、「くだらない詩を書くよりはそれこそ田でもつくった方がまだまし」とあり、そんな手紙を宮沢賢治に出したところ、「その方なら自分は詩とはちがって相当の自信もあるので飛んでって設計してあげてもいい」と返事が来たらしい。結局その時は賢治お親切を無にするハメになったようだが、やがて夢は詩を書き続けながら川内村で実現することになる。
 川内村にはとにかく懐の深い長福寺住職がいた。そこで心平さんは村人の「連帯」も得ながら望んだ百姓暮らしも始め、いわば命の讃歌としての「お経」を唱えてゆく。
 私はある年の五月にひっそり静まった「天山文庫」を訪ねた。シロヤシオツツジが満開で、青空に白く煌めいていた。
 どういうわけか私は「何もかももう煙突だ」という詩を憶いだした。智戒英昌大姉に捧ぐ、とあるが、それはいったい誰なのか。「八つの自動車は悲しみを載せ。八つの自動車は一列になり。白い悲しみの列になり。道を曲がれば悲しみは。U字に流れ。坂を上る」(中略)「「人々行き交う春の街路を。かかわりもないそのなかを。悲しみは走り。悲しみは曲がる。そうしてああもう煙突だ。」火葬場の煙突に向かうこの絶叫は、いつしか私の別れのお経になっていた。しかし今はそんな場面じゃないし、私はあらためて心平さん亡き今に思いを巡らした。
 「無になったるりるよ。じぶんもまもなく無になるだろう。」と心平さんは「恋愛詩集」で謳う。「死んでも君に会えるとは信じない。信じたいが分からない。けれども無になることはそれに近い。」それはどういう無なのか?
「無のまえには 無限があった 底もない天上もない無限があった 始めて胴ぶるいする生命の歓喜があった」(「行進曲」)。ああ、やっぱりそこに戻ってきた。無は死後でもあり、生の源でもあった。
 「死んだら死んだで生きてゆくのだ。」心平さんはヤマカガシに食べられたゲリゲにそう言わせている。帰り道の田圃では声を声明のように繋げて蛙たちが鳴きだし、もやもやもやとした水の中ではおたまじゃくしたちが「べつべつなんだけど、ひとりじゃない」と呟いていた。やっぱりお経。重重無盡の縁起じゃないか。

「詩とファンタジー」46号