天真を養う 第17回

言中響あり

 この連載の何よりのありがたさは、思いもよらぬ凄い墨跡に出逢えることだ。今回も隠元和尚の雄渾な書に接して歓喜した。しかもこの言葉、私の大好きな言葉である。「竹密にして流水の過ぐるを妨げず」後は対句で「山高うして豈に白雲の飛ぶを礙えんや」と続く。

 山が高いからといって雲が飛ぶ邪魔になるわけではない。同様に、竹の枝葉が密だからといって、流水を妨げることはない。つまり、それなら山は高いほうがいいし、竹の枝葉だって密なほうがいいと言うのである。『禅林類聚』所載の言葉だが、隠元和尚が書かれた真意はなんだろう。

 隠元隆琦禅師は四度目の招請で承応三(一六五四)年、長崎に来航した。弟子を二十人以上伴っての来日だから、圧倒的な影響力が推測できよう。鑑真和上が来日し、唐招提寺ができて以来の一大事件と言えるかもしれない。

 興福寺(長崎)、崇福寺(福岡)、普門寺(大阪)と活躍の舞台は移るが、具眼の僧俗がどんどん集まり、数千人とも伝わる。その影響力を怖れた江戸幕府は、隠元に普門寺の外に出ることを禁じ、寺内の会衆も二百人以内に制限したが、無駄な抵抗だった。とうとう四代将軍徳川家綱に謁見叶い、その徳風と幅広い教えによって宇治に土地を賜り、本国の寺と同じく黄檗山万福寺と名づけられた。

 隠元禅師自身は臨済宗の正統を称したが、その中身は鎌倉時代に伝わった日本の臨済禅とは相当違っていた。明代の中国臨済禅は、「禅浄双修」といって念仏も包摂し、しかも「陀羅尼禅」と呼ばれるように陀羅尼(インド音のままのお経)も積極的に唱えた。当時の臨済宗や曹洞宗の宗門改革にも多大な影響を与えたが、結局は別な一派(黄檗宗)として日本での歩みを八十二歳まで続けたのである。

 さて、「黄檗の三筆」と謳われた隠元和尚のこの書だが、竹と流水に喩えて何を表現しているのだろう。これは私の勝手な解釈かもしれないが、竹の枝葉が意味するものは言葉ではないだろうか。

 禅は「不立文字」を標榜し、本当のところは言葉では表せないと言うけれど、だからといって言葉を否定しているわけではない。

 真実を流水に喩えるなら、それを妨げない繊細で肌理細かい言葉こそ、人を救う力ではないか。丸太を数本置けば流水も妨げられ、「気」の流れも止まってしまう。そんな堰みたいな言葉じゃなく、繊細で「密」な言葉、「言中響きあり」と思えるほどの言葉なら……。

 おそらく道場では中国語だったと思えるが、心の枝葉は言語を超えて伝わるに違いない。そしてそんな隠元禅師だからこそ、江戸時代の日本の禅を変えるほどの力を持ち得たのではないだろうか。流水の響きが聞こえるような練達の書である。

※「隠元隆琦筆一行書」  隠元隆琦   慶應義塾蔵(センチュリー赤尾コレクション)

月刊「墨」2023年9・10月号284号