「願わくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ」、西行法師はそう詠って、二月十六日に亡くなった。お釈迦さまと同じ如月(旧暦二月)の望月(十五日)の頃に往きたかったわけだが、一日遅れ。今でも自殺説が燻る。
ところが私の父(福聚寺先住職)は九十二歳で涅槃会の日(新暦二月十五日)に遷化した。まさにお釈迦さまと同じ命日である。しかも東北の花(桜)は都より遅い。密葬を終え、津送(本葬)を迎えたのは四月十八日。折しもお寺の桜が満開で、散華の始まる頃合いだった。西行の歌に詠まれた願いが全て叶ったのである。
三春界隈には桜の名所が多いせいだろうか、お医者さんの余命告知にも桜が登場する。昨秋、「七月の誕生日を迎えるのは無理かもしれないよ」と言った医師が、十二月になると「来年の桜は見られないかもね」と告げたというのである。
私の主治医と同じ先生に途中からお世話になっていた祖伸和尚(三春高乾院住職)は、「そんなこと、さらっと言われましたよ」と、同じようにさらりと告げるのだった。「しかしT先生に出逢えてよかったですよ」と、主治医への信頼を口にしたのはそれ以前のことだ。
抗がん剤治療をやめてからの祖伸和尚は、その時を見据えて静かに時を過ごすようだった。遺影を撮りに写真館に出向いたときも、「法衣を新調した記念に」と詐ってにこやかに微笑んでいた。
年も押し詰まり、次第に全身が重だるくなり、歩くのも苦痛を伴うようになってきた頃だろうか。「桜までは無理というなら、宗明和尚さんみたいに津送で満開というのもいいですね」と呟いた。さすがにその時は笑わず、私もこれまで祖伸和尚が担当してくれた年始廻りの家々を必死に地図上で確認し、書き込んでいた。
約四年半の闘病の末、一月二十一日に入院し、短い緩和ケアを受けてとうとう二十九日に逝った。和尚の行年は世壽と言うのだが、世壽六十五歳はあまりに若い。ただ我々僧侶の世界では、港(津)から送り出す意味で本葬を「津送」と呼ぶ、今後は彼岸に遷って人々を教化すると信じ、その死を「遷化」と呼ぶ。
津送が四月十四日(日)に決まったのはどういう経緯だったのか、友引を選んだこと以外よく覚えていないのだが、どこかで桜の満開を予測していた気もする。道場の先輩であるいわき市建徳寺御住職を導師と仰ぎ、満開の桜の下で親族や檀家さん、そして大勢の修行仲間たちに見送られて祖神和尚は旅立った。
散華とは、仏を讃えてその場を香りで清めるために散らす。しかし一方で、若死にのことも散華と言う。風のない穏やかな天然の散華を眺めながら、思い交々の今年の桜である。
福島民報 2024年4月21日