以前私は、人が住む場所によって物の見方にどんな影響があるのか興味を持ち、『四雁川流景』という短編集を書いたことがある。水の豊かな架空の町で、湿地帯や盆地の中央部、坂の途中や丘の上、あるいは古代の墓地跡に建てられた高層ビルなど、主人公の設定次第で住む場所も自然に選ばれ、土地の力(地霊)によって物語が動きだしたような記憶がある。
その際、特に重視したのは、その家の窓からどんな景色が見えるのか、ということだ。不穏な気分も楽観的な見方も、なぜか日常的に眺める風景が呼び寄せる気がする。「四雁」とはアイヌ語で「うねうねと流れる水」で「イシカリ」にも共有されるが、その川と山々がどう見えているのか、全体の地図まで描いてそれぞれの物語を書き進めたのである。
そんなことを急に憶いだしたのは、一通の便りのせいだ。「あづま山の景観と自然環境を守る会」の代表である矢吹武さんが、『雪うさぎの涙』という自著をご恵送くださったのである。先達山のメガソーラが壊した景観を嘆き、「この先何十年もあの景観を見て暮らすのか!」と、様々な場面の怒りや憤懣や悲しみを絵詞で綴っている。
ネットで調べてみると、福島市も「ノーモアメガソーラ宣言」を出し、来春から許可制にする条例をつくるなど、苦慮している様子が覗える。市長は「これ以上新設を望まない」というのだが、遅きに失した感は否めない。すでに設置されたり建設中のメガソーラーは市内で二十六箇所を数える。この県の震災以後、原発以外の自然エネルギーに拘ってきた結果なのだろうが、太陽光は確かに再生可能でも、破壊された山は簡単には再生されない。
カール・ブッセの「山のあなた」(上田敏訳)はご存じの方も多いだろう。「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」。つい山のあなたに幸いを求めてしまうのは、青々とした美しい山がそこにあるからではないか。とりわけ日本人は、「あなた」を二人称の敬称として用いた。距離の離れた「向こうの方」の景色こそ我々の生活に甚大な影響を与えると、きっと知っていたのである。
いったい、欲望が山を削るこんな景色をみている主人公にはどんな物語が相応しいだろう。「遊んでいる土地を売ってお金にしませんか」という誘い文句に乗り、お金で得た彼は更に欲望を膨らます。小説書きの勝手な妄想と言われるかもしれないが、私には世代は違うもののやがて「闇バイト」に手を出す若者と同列に見えてくるのである。
今どき山の神の怒りと言っても聞いてはくれないだろうが、少なくとも大勢の眺める景色を勝手に変える権利は誰にもない。既成事実化してしまわない方法はないものか、今更だが県や国に問いたい。
福島民報 2024年11月17日