干支にちなみ、馬の話を書いてみたい。仏教の祀る観音像のなかに、唯一憤怒で牙を剥きだしたお方がいる。馬頭観音である。その憤怒を重く見て、密教では馬頭「明王」と呼んだりもするが、それはともかくいったい何をそんなに怒っているのだろう。
梵語ではハヤグリーヴァと言い、「馬の首」の意味だ。これはヒンドゥー教の最高神ヴィシュヌ神の異名でもあるから、大黒天や毘沙門天、弁天さまと同じく、ヒンドゥー教から取り込まれた仏なのだ。そして最高神の化身ともなれば、怒りのネタには事欠くまい。
およそ仏教は、多くの信者をもつ他宗教の神々を、アメーバ的に取り込み、そのつど教義を拡張してきた。そして日本に渡ってからも独自の変化、拡張を続ける。はたして馬頭観音とは、どんな仏として信仰されたのだろうか。
衆生の無智・煩悩を怒り、諸悪を断滅する、というのが一応憤怒の公式の理由だが、全ての観音の憤怒を一身に背負っているという見方もある。煩悩熾盛の凡夫を相手に常に微笑していれば、いつしか怒りが溜まるのだろう。しかし当然のことながら、「馬頭」という名前のせいで、民間では当初から馬や畜生類の守護仏としても祀られた。
農耕や運送、あるいは狩猟の伴として、馬ほど人間に奉仕した生き物はないだろう(牛も同等だが)。速く走ることを強いられる彼らは、伯楽という調教師の登場により、蹄を削って鉄を当てられ、毛を剃られ、焼き印を押され、首には手綱を巻きつけられ、尻を鞭打たれて走ることになった。従順で人の気持ちも察する頭のいい動物と、人類はそうして二人六脚で歩んできた。その自覚も確かにあったのだろう、街道運輸が発達した江戸時代には、往来で命を落とした馬の霊を慰めるため、各地に馬頭観音が祀られた。
しかし馬たちの奉仕が最も顕著になるのは、何と言っても戦争の時代である。馬のメッカといえば北海道だが、日露戦争直後の明治三十九年、国は全国八箇所に設置した軍馬補充部のうち、四箇所を北海道に置いた。なかでも現在の本別町にあった十勝支部では多くの軍馬を養成補充した。たまたま講演の依頼があり、私は本別町に行った折に歴史民俗資料館に立ち寄ったのだが、目に飛び込んだのは「馬は兵器だ」と書かれた当時の馬政局のポスターや軍馬たちの写真。そして昭和七年のロサンゼルス五輪で馬術大障害飛越競技の金メダルを獲得したバロン西の遺品などだった。西は馬の専門知識を有する騎兵将校として、十勝支部に配属されていたのである。
軍馬補充部の任務は、軍馬の購入、育成、補充で、馬市で「軍馬御用!」と言って競り落とした二歳馬を五歳まで軍用に調教し、即戦力として各地に送り届けた。
日中戦争が始まると軍馬の需要は一気に高まり、旧国鉄の駅から貨物列車に載せ、九州まで長旅の挙げ句、港から船で大陸まで運ばれた。貨物列車に乗せる際、ホームと貨車の間に「馬踏板」と呼ばれる板を渡すのだが、勘のいい馬たちはそこで足を踏ん張り、嘶いて乗るのを嫌がったという。無数の蹄跡のついた「馬踏板」を祀った馬たちの慰霊碑が、家畜共進会場の横にひっそり立っていた。
この頃、「武運長久」「一死報国」などと書かれた襷を首に巻かれ、腹に日の丸を巻いて戦地に送られた馬は、全国で百万頭近くと言われる。そして無事に帰還した馬は、一頭だけだったとも聞いた。
東北の曲がり屋も馬のためだが、北海道でも馬は開拓時代から家族同様に大切にされてきた。十勝地方には馬頭観音が際だって多く、約五百体も祀られているという。馬を飼う家がほとんどなくなった今でも、馬頭観音は「馬頭さん」と呼ばれて親しまれ、農村部では毎年馬頭祭をする地域が多いのである。
ここまで書けば、馬頭観音の憤怒の意味も察しがつくだろう。馬はおそらく人類とのつきあいの当初から、理不尽な奉仕ばかりさせられてきた。これは世界に共通する歴史ではないだろうか。
中国では戦争が終わり、平和になることを「馬を桃林に放つ」と言うが、日本でも牛の平安時代が終わると馬の鎌倉時代が始まった。それ以後の権力は常に武力、馬と共にあったと言えるだろう。
『荘子』馬蹄篇には馬の真性が次のように描かれる。「馬の蹄は霜や雪を踏んでも支障なく、体毛は自ずと風や寒さを防ぐ。草を食み、水を飲み、足をあげて跳ね回る」。だから馬蹄や厩舎など、余計なことをする必要はない、というのだ。はたして馬頭観音の憤怒が、余計なことをする人類に向けられたものか、あるいはそんな馬として生まれた自らの運命を呪うのか、それはわからない。しかし新年の干支としての馬は、荘子の言う「天放(本性そのまま)」の馬を想いたい。
子供の健康を見守ることこそ馬の天性、馬頭観音の本願ではないか。
「うえの」2026年1月号