誇り高く「自前」で生きる

 東日本大震災があり、台風19号があった。私たちの間では「この先何が起こるか分からない」という気分が日増しに強まっている。
 コンピューターや人工知能(AI)の想定がどれだけ緻密になっても、未来は捉えきれない。災害を防ごうとしても、自然は事前の対策を必ず超えてくる。「二度と起きないように対策を講じる」と決まり文句を繰り返す行政に比べると、自然のなかで生きることの過酷さを実感している市民のほうが鋭敏で正しい、と私は思う。
 禅に「行雲流水」という言葉がある。行く雲のごとく、流れる水のごとく、あるがまま自然を受け容れる、ということだ。
 治水の話をすると、たとえば私が住職を務める福聚寺(三春町)の墓地は、コンクリートで地表を覆わず、雑草や苔を生やすように勧めている。U字溝(側溝)も、わざと底の部分を割ってある。こうすると、雨水の多くは地中に染み込んでいく。
 明治以降の150年、欧州に倣った堤防を造り、水を川に封じ込めて海まで運ぶ方法を採用してきた。しかし、ときに滝のように暴れる日本の川には不向きではないか。まして都市化によって地面がコンクリートで覆われ、水の逃げ場がなくなった現在はなおさらだ。武田信玄が公案した信玄堤のように、あふれた水を少しずつ外に逃がし、流域全体で分け持つ発想に戻すのが、国情には合っている。
 原発事故への政府の対応も、市民感覚に照らせば違和感がある。あまりにも杓子定規な賠償金が被災者の分断を生み、いろんなことを過剰に気にしなければいけない窮屈な立場に追いやられている。そもそも、あらゆるダメージがお金に換算できるという心根が人を貶める。
 賠償や補償は立ち上がるための杖であり、一時的に頼るだけのものだろう。震災直後、ある福島市の果樹農家がこう言った。「長年築いてきた信用が原発事故の一瞬でなくなったが、我々は東電の補償でなく、果物を売って自前で生きていきたい」。誇り高く立派な言葉だった。
 この「自前で生きる」生活を取り戻せるかが、福島の復興のものさしになる。

読売新聞 2020年1月11日