仏教啓蒙の仕事を旺盛に続けている著者の、作家としての実力のほどを窺わせる本格的な書き下ろし長編小説である。
 めっぽう面白い。息を継ぐ暇もないほどの展開と、構成の妙に酔わされる。俗にいう「多重人格」、現在では「解離性同一性障害(DID」と呼ばれる症例を、本書は題材としている。刺激的だがうかつに手を出すのが難しいモチーフを、著者は僧侶ならではの解釈で見事に消化しきっているといえる。
 二十七歳の田中実佐子は、結婚三年目で妊娠したが最近流産した。出版社に勤務する三十二歳の夫はリフレッシュ休暇をとって、彼女の希望でハワイ旅行に出る。その旅先のホテルで、とつぜん「友美」と名乗る見知らぬ人格の女が、妻から出現する。生真面目で大人しい妻に比べて、気が強くて大胆な女だ。淑女と妖婦のように対照的な性格のみならず、表情や体つきまでが別人のように見える。
 以前から健忘症や幻聴に悩まされていた実佐子は、精神科病院に通っていた。また主治医である杉本は、アメリカ留学中にDIDの症例を何度か経験していた。その杉本にとっても驚くべき現象を実佐子は潜めていた。やがて「絵里」という第三の無邪気で温和な人格が出現する。かつて夫が実佐子と出会って見初めたのも、じつはこの「絵里」だったという事実が明らかとなる。
 このような「多重人格」の症例が主にアメリカで報告されるようになったのは八〇年代からで、日本でもダニエル・キイスのノンフィクション『24人のビリー・ミリガン』が九〇年代に話題を呼び、広く知られるようになった。しかし「解離性同一性障害」の概念が確立したのは、一九九四年になってからであり、今でも誤診や誤解が少なくないという。そんな精神医学の最前線の臨床現場を、本書は興味深く見せてくれる。
 患者のほとんどは幼児期に虐待を受けた心的外傷(トラウマ)を抱えていて、自我を守るために主人格に代わる交代人格を作りあげる。田中実佐子の場合、トラウマの原因となったのは、彼女に日舞『阿修羅』(講談社)を習わせた祖母の厳格な躾らしい。
 本書は、実佐子の夫や杉本医師の視点から、彼女の病と生育歴の全貌が次第に解き明かされる過程を描いていく。きわめて臨場感のある、緊迫した筆致だが、異なる人格が入れ替わる症例だけに、人格の書き分けに作家としての実力が問われる内容といえる。その点、三人の造形は見事で、読み進むうちにそれぞれの女性に親近感すら湧いてくる。
 しかし、症例の物珍しさや、たんなる治療のドキュメントに留まっていない。そのプラスアルファの要素こそ、小説として読み応えのあるところである。人の心の不思議さと直面しつつ、科学的な合理主義に埋没しない僧侶の視点が、大きな説得力を発揮しているのだ。仏教では精神医学樹立のはるか昔から、人の心に「阿頼耶識」という見定めがたい無意識の領域があることを説いてきた。多重人格も決して未知ではない。
 三人の人格の分裂に苦しむ実佐子は、高校の修学旅行で奈良へ行ったとき、興福寺の阿修羅像と出会う。その姿を自分のようだと「絵里」は感じ、写真を購入して壁に貼っていた。しかし「実佐子」は恐ろしい「鬼」と感じていた。あの美しく謎めいた阿修羅像が、この多重人格の物語の象徴として姿を現すのである。なんと似つかわしいことか。
 健常な心の裏側にも、小さな解離や分裂は隠れている。医師の杉本とて例外ではない。実佐子という患者の物語は意外な結果で収束するが、治療者であったはずの杉本は、自分の「阿頼耶識」とようやく向き合うことになる。この結末は奥深い。解離性同一性障害という「病」を入口として、本書は我々を等しく「阿頼耶識」を抱え持つ存在として、阿修羅像と向き合わせるのだ。    

 すみず・よしのり=1954年、奈良県生まれ。愛知淑徳大学教授。著書に『村上春樹はくせになる』(朝日新書)、『大学の未来』(風媒社)など。

 
     
  「週刊朝日」 2009年11月27日号 「週刊図書館」