福島県三春町の寺の住職にして、東日本大震災復興構想委員も務める作家、玄侑宗久氏。
母の故郷である沖縄を強く意識しつつ政治、外交から宗教まで幅広い論陣を張る佐藤優氏。
震災以後、可視化された戦後体制の軋みをいかに超えるか。率直で真摯な初めての対談。
 
     
  私はこの福島県三春町に来たのも玄侑先生のお寺をお訪ねしたのも今日が初めてですが、三春は、私にとってルーツの一つなんです。実は、私の父方の祖父が三春の出身です。その母親は、三春にある臨済宗妙心寺派の寺の娘だったと聞いています。
えっ? ひいおばあさんが、わが宗派のお寺の娘? 三春町の臨済宗妙心寺派って、うちと、もう一つしかないんですよ。しかもそこは明治時代からうちが兼務していますから、親戚かもしれないじゃないですか!
もしかしたらつながっているかもしれません。今度きちんと戸籍を調べてみます。祖父の祖先は、もともと三春藩の与力をやっていたそうです。祖母は福島県石川郡古殿町の百目鬼(どうみき)の出身で、私が鰻を食べるのをひじょうに嫌がります。百目鬼では鰻が神様の使いだから食べないのだと、いつも言っていました。
百目鬼というよりも、虚空蔵様の信仰がある土地はそう考えるんですね、たぶん。
なるほど。私の父親は戦争中、三春の農家に疎開していましたが、あまり楽しい思い出はなかったようで、飼っていたジョンという犬の話ばかり聞かされました(笑)。それから精神に少し変調をきたして入院した後、沖縄へ渡り、私の母親と知り合ったそうです。ですから、玄侑先生との対談のお話をいただいた時、これは不思議なご縁、えにしだと思いました。
 私の父親は二〇〇〇年に死にました。その頃、私はまだ外務省に勤めていたんですが、プロテスタントのキリスト教徒である母親から電話がかかってきて「ちょっとお父さんにキリスト教の話をしてやってほしい」と言うんです。「お父さんは関心を持っているから、きっと洗礼を受けたがっていると思うんだ」と。母はそれまで、人に信仰を勧誘することはなかったんですが。
それは病院で、ということですか。
病院で、です。もう余命がわずかな時でした。知り合いの牧師を呼んできて話をしたんですが、父親は「優が神学部に行ったし、お母さんと結婚してから教会をあちこち回ったけど、どうしてもキリスト教が合わない、浄土真宗のような感じがする」と言っていました。
それは鋭いですね。親鸞聖人はキリスト教、特に景教(ネストリウス派)を知っていたんじゃないかという説もあります。
いずれも絶対他力におあずかりするという宗教ですから。父は、子どもの頃から三春に行って、お寺で坐禅を組んだりしつつ、禅宗で宗教観を身につけたというんです。ですから、どうしてもキリスト教は違う感じがすると。職業も技師だったので、やはり自分の力で救われたいから、キリスト教は勘弁してくれと言っていました。
それは常日頃、ですね。でもお父さんが三春のお寺で坐禅を組んだとさしたら、うちしかないですよ、それは。
父が死んだ後、遺書が出てきたんです。簡単なメモ書きなんですが、死ぬ二年前の九八年、がんの大手術を受ける前に書いた遺書だったようです。そこには葬儀会社に払い込んだ通知書などが入っていて、死後に葬儀は無用、と。どうしてもやる必要があるならば、葬儀会社に払い込んである枠の中で、厳に密葬でやること、宗派は問わない、お母さんと相談してやりなさい、と書いてありました。すると母は、「父は最期、死ぬ前に、目で神様を信じると訴えていたから、キリスト教式でやる」と(笑)。そういいかげんな理由だと引き受けてくれる牧師はなかなかいません。同志社の神学部の後輩で引き受けてくれそうな牧師に電話をして、こういう事情だからと頼んで、葬儀会社のセレモニーホールでやったんです。
お父さんが目で語っているという場面は、ご覧になってないんですか?
見てないです。母親の心象風景の中ではそう映ったんでしょう(笑)。

佐藤さんと対話するのに、私なんかではかないそうにないので、今日は雪村の達磨の軸を出してきました(と床の間を振り返る)。本当に幅広いご活躍ですよね。
いや、売文業者ですから(笑)。
官僚として国の中枢に関わっていたところが、やっぱり説得力が違うように感じます。
それはむしろ、私の限界なんですよ。折々に官僚的発想を脱皮していかないといけないと思うのですが、やはり3.11のようなことが起きると、一回脱いだはずの官僚の皮がピタッとくっついちゃうんです。たとえば拙著『3.11クライシス!』にしても、常識的に考えると、ひどいことを言っているなと思います。翼賛体制とか、あるいは報道協定だ、情報統管制をしろ、などですね。ただ、私には官僚に真実の情報を出させるためには、どういう方法があるのかという現実的な問題意識があるわけです。それだからあえてあのような発言をしたのです。その種明かしは『交渉術』の文春文庫版のための増補でしています。緊急事態においては首相を断固支持しなければいけない、と私のような者が言うことで、何か動かせれば、と。
私も有事の組織論という観点では、全く同感ですよ。
玄侑先生の御著書『福島に生きる』では、魂の問題と、生者と死者の問題が扱われていますが、こういう答えが出ない問題を扱うことが、官僚は非常に下手なんですよ。
そうなんですね。それは実際に接してみて、感じました。
だけど不可能の可能性として、扱わないといけない。おそらく玄侑先生に復興構想会議に入ってくれと頼んだのは、菅直人さんのポピュリズムではなくて、菅さんの中に、何か合理性と違うところのものが入らなければならないという直感があったのではないでしょうか。
そうだと思います。ただ、どういう発言が期待されているのかは全くわかりませんでした。あの方自身もあの会議では最初の挨拶以外、一言もおっしゃらなかったですから。
それは何も考えがないんでしょうか。
復興構想会議の他にも、会議をいくつも作っていかれた。佐藤さんが翼賛体制とおっしゃったことと、まったく反対の方向に進みましたよね。
いくつも作ると、何も作らないものと似てきますからね。むしろ拡散体制みたいな感じです。
あれではどうしようもないと思います。皆さんが声をかけて集めた会議なんですけど、結局、最初から言うことを聞かない雰囲気が出てしまった。
『福島に生きる』を読むと、裏で官僚がブリーフィング(説明)をして、増税のほうに誘導していこうという雰囲気が非常によくわかります。

私は今回初めて官僚という人たちに接しましたが、何か意見を言うと、次の集まりまでの間に連絡をよこすんですよ。「今度の会議の前にお会いしたい、いろいろご意見をうかがって、こちらで調べたことを提示したい」と。官僚に呼び出されたのは私がいちばん多かったようです。
それはですね、官僚の用語で言うと「可愛くなかった」んですね。官僚の世界には「可愛い、可愛くない」っていう言葉があるんですよ。官僚の言うことをよく聞くのが可愛い、聞かないのは可愛くない。
私は素直なんですけどねぇ(笑)。文部科学省も農林水産省も厚生労働省も連絡をよこしました。会議の二時間前、三時間前に来てくれと言うんです。で、取り囲まれて、「前回のご質問に対して、こういうものをお持ちしました」と資料を示すんです。たとえば、今後、放射線教育を充実させなければいけないだろうとお申し上げたら、文科省が持ってきたのは「もう、すでに教科書に載っていますよ」というコピーなんですよ。重点を入れて教えているわけじゃなくとも、教科書にここまでは載っていますと。
要するに、自分たちは仕事をしているというエクスキューズですね。官僚の人たちは特有の文化がありまして、玄侑先生や私とは子供の頃からだいぶ違う生活をしてきた人たちだと思うんですね。基本的に褒められるのが好きで、怒られるのが嫌いだという文化を持ってるんですよ(笑)。何かをやっていないと、怒られる可能性がある。怒られるのは嫌いですから、「こういうふうにやってますよ」と事前に示しておきたいわけですね。
 それから、逃げるのが職業の一部分ですから、天才的な知恵を巡らして責任を回避するんです。官僚の世界に権限争議っていう業界用語があります。消極的権限争議と積極的権限争議とがあって、経済産業省は、何でも自分の仕事にしたいので積極的権限争議が好きなんです。外務省は、とにかく面倒くさいことには触りたくないので、消極的権限争議が大好きなんですね。
そのくせ、これまでに経験のないことについて提言すると、ピタッとやって来なくなるんです。
先例がないと思考が停止して、視界の外になりますからね。
というのは、大地震が起こった直後に私がいちばん問題だと思ったのは、第一原発周辺の立地町村の未来なんです。ユダヤ人のように故郷を離れてバラバラに住まざるを得ない状況が続く中で、はたしてこのままチェルノブイリみたいに、昔はこういう村、こういう町がありました、とコミュニティが朽ち果ててしまうのを座視して待つのかという問題です。要するに双葉町なり、富岡町なり、大熊町を再編するとか、新たにどこかに用意した土地で集まって暮らしてはどうですかというやり方をする気はありませんか、と第一回の会議で訊いたんです。福山官房副長官(当時)が休憩時間に近づいて来られて、じつはそういう考え方も検討しています、と言われた。十万人規模で移転できる場所が国有地などで取れないか、検討しますとおっしゃったんですが、その後どうなったのか、うんともすんともありません。
 それから野田政権に代わって、はっきり言って、菅総理が作った会議を受け継ぎたくないんだなという感じはすごく伝わりました。法的には、復興庁ができた後に復興構想会議は解散して、復興構想委員会に変わることになっています。われわれは同じメンバーがそこに入るのかなと思っていたんですが、どうもそうではなさそうですね。
まだ宙ぶらりんな段階なんですね。
ええ、十一月に行われた第一三回が野田総理の招集した最初で最後の会議でしたが、じつはその時、第一回と同じことを訊いたんですよ。代替地の問題ですね。除染して戻るという考え方はわかるけれども、実際にアンケートを取ると、若者の半数以上が戻らないと言っているわけです。若者のいない町なんてあり得ないですから、ならばその代替地――私が思うのは猪苗代湖の南側、湖南あたりの国有地ですが、そこに町ごとのエリアを開発して移動してもらうという考えはありませんかと、もう一回訊いたんですね。すると、まったく初耳のように平野復興対策担当大臣が「重大に受け止めて検討します」と。あれは何語なんですかね。
本当に初耳だった可能性があります。
 それは神学論争の世界に似てますね。普通の学問的論争では、だいたい論理整合性の高いほうが勝つんですが、神学論争は論理整合性の低いほうが、暴力的な介入によって勝ちます。最初は真面目な議論だったのに、だんだん些末な議論に入ってきて、針の先で天使は何人踊ることができるかっていうような議論をするころには、みんな疲れきってしまうんですね。それで論争をやめてしばらく経って、みんな忘れた頃、二百年ぐらい経つと、また同じテーマが繰り返し出てくる。
禅問答と同じようなものですね。一喝したほうが勝つ(笑)。
官僚もじつはよく怒鳴ります。怒鳴って言うことを聞く相手に対しては怒鳴りますから。菅さんはそのへんだけ、ちょっと勉強したところがありますよね。
 今の移住の話ですが、歴史的には先例があるんです。私の母親は久米島の出身ですが、そのなかに鳥島という地区があるんですね。鳥島地区は、久米島の他の場所と言葉がまったく違う。さらに、母親の世代の久米島人は基本的に泳がないんですが、鳥島の人は見事に泳ぐんですね。実は徳之島のすぐ横にある、硫黄鳥島という島から移住してきた人たちなんです。硫黄鳥島では二十世紀初頭から噴火が激しくなって、居住が危険になり、日露戦争が始まったころに当時の県庁と内務省が判断して、数百キロも離れたまったく縁のない久米島に移住させたんです。去年、とても話題になりました。もう一つ、久米島の横に、うんと小さい鳥島という離島があるんです。
別な鳥島ですか。
はい、これはサンゴ礁の岩礁で、米軍の射撃場になっていました。ここを返せと、久米島町がずっと要求してきました。ようやく返還されることになったんですが、爆撃によってもう島の形が残ってないんです。劣化ウラン弾なども撃ち込んでいたようですから。それで、その代わりに、先ほどの硫黄鳥島を射撃場にすると。そうしたら、久米島はもとより沖縄県がすぐに大反発をした。「墓がある」と。墓があるところを射撃するとは何事だということで、沖縄全体の怒りになるんですね。墓の問題は大城立裕先生の新著『普天間よ』でも大きく扱われています。死者との連続性が墓で担保されている、と。
沖縄のお墓はまた独特ですが、これも古墳文化から考えると、古代日本に共通した認識だったかもしれませんね。沖縄では、みんなでお墓の前で宴会するそうですね、死者も含めて。
ええそうなんですよね、三線を弾いて。豚の煮つけを供えたりして、一族そろって盛大に祀ります。

私も年明けに沖縄に行く機会がありまして、大城立裕先生にお会いしたら、向こうから佐藤さんのお話が出て、因縁を感じましたね。普天間や嘉手納基地を見てきて、今の福島に共通することをたくさん感じました。今回、福島はほんとうに沖縄が気になるんですよ。
沖縄も福島が気になります。沖縄で一昨年から出て来たワーディングに「構造的差別」というのがあります。おそらく沖縄の人たちの論理からすると、福島第一原発の構造が差別の構造に見えるんですね。沖縄は、日本の地上の0.六%の面積で、その中に七四%の米軍基地があります。残りの都道府県がなぜ基地を受け入れないのか、と問うと、民意が反対しているから、といわれる。ところが、沖縄の民意も反対している。民意に反対することをやらないのが民主主義の原則ならば、われわれのところには民主主義は適用されないのかというわけです。米軍基地という形で政治的な差別構造が残っている。沖縄から見ていると、福島第一原発のあの事故が起きる前は、原発の問題は差別という観点では見えなかった。しかし、第一原発事故が起きた後、宅配便がその近くに入らない、福島の子どもたちが、船橋で放射能がうるつと言っていじめられる、福島ナンバーの車を他県に入れない、というようなことが起きる。実は原発が福島に設置されたのも政治により差別が構造化されたものだ。それだから原発事故が起きると政治的な差別が社会的、経済的な差別に転化してしまう。沖縄はそれが他人事に見えなくて、原発も米軍基地も同じような構造の問題に見えてくるんです。
まさしく米軍基地の問題とそっくり同じことが、福島に作ると言われている中間貯蔵施設なんです。「三十年以内に最終処分場に移す」といいますが、どこに移すことが可能なのか、よくよく確認しないと、それは中間貯蔵になりません。
「中間」という名の半永久的な貯蔵になる危険性は、きわめて高いですよね。
ただ「中間貯蔵」の方法と、「最終処分」の方法はまったく違うので、中間貯蔵施設のままずっと残るのは、かなりヤバいことなんですね。
わかります。
だから、処分する時点で、それはほんとうに中間なのか、問い詰めないといけない。実際に最終処分場を作ることになりそうなのは、未だにフィンランドだけでしょう。ドイツでは反対運動が激しくて、先行き不透明です。日本では最終処分場としての希望を募り、二〇〇七年の高知県の東洋町だけ応募しましたが、後に取り下げています。はたして核廃棄物の最終処分が本当にできるのかどうか、それが重大な問題です。
玄侑先生も『福島に生きる』に書いておられますけれども、そもそも長期間にわたって放射性物質が出続けていると、人間にどういう影響を与えるかというデータがないんです。だから科学の発想の枠の中では限界がある。だからといって、信じるか信じないかという信仰のレベルに飛んではいけないのです。今の「半永久的な中間」ということから連想したのは、キリスト教の神学の「終末遅延」という概念です。イエス・キリストは死んで復活した後、もう一回天の上がる前に弟子たちに一言、言い残していくんですね、「わたしはすぐに来る」と。ヨハネの黙示録の最後に書いてあります。それを聞いた弟子たちは、主はすぐに来られるから、悔い改めなさい、と一所懸命伝道しました。だから最初はイエスが何を言ったか書き残さなかった。数年以内に来ると思ったけれど来ない。十年待っても来ない。二十年待っても来ない。三十年ぐらい待ったところで心配になってきました。もしかしたら、私の世代では来ないかもしれないと。それで聖書を書き残し始めたんです。
信仰を持って亡くなった人はいま。天国へ行けずに溜まっているという状態なんですものね。迎えが来るのを待ちながら、ずっと向こうに行けずに待機している(笑)。
その通りです。キリスト教は構成がそうとうインチキな宗教です。だから強いんですよ。
三位一体のことなんかも、佐藤さんが神学的な混乱があると書いてくださって、なんかホッとしちゃいましたね。たしか『国家論』でしたか、神でもあり人でもあるイエスなんて、ワケがわからんって書いてますよね。
三位一体なんてわかるはずはないわけですからね。ですから、地方分権と財政再建をセットにして「三位一体の改革」と小泉さんが名付けましたが、外国では訳のわからない、説明不能の改革と解釈されました。それだからこそ「これは深い、東洋の神秘」と(笑)。
あの方は、説明不能というのを戦略として使ったのでしょうね。
本来、政治の世界では、言葉の使い方で禁止されている用法があります。「絶対に当たる天気予報を今から言いましょう。明日の天気は晴れか、晴れ以外のいすれかです」というものです。これは論理学でいうところの恒真命題で、論理関数にどんなデータを入れても全部プラスの答えが出てくる。ただし、天気に関する情報は何もない。これを政治で絶対に使ったらいけない。ところが、占い師はよく使う。「あなた、悔い改めないと来年の今頃、地獄に落ちるわよ」というやつです。来年の今頃、地獄に落ちていたら、私の予言が当たったからだ。落ちていなければ、私の予言を聞いたからだ、と。
橋本徹・大阪市長もそれを使いますよね。「このままでいいんですか」って。
そういうトートロジーの使い方がうまく。恒真命題を作る能力のある政治家は日本にも何人かいます。ただそれは、アリストテレス論理学の流れを引くヨーロッパの国民だったら、瞬間的に寒気がするはずなんですよ。これは何か変な言葉遣いをしているぞ、と。
 ところが、イラクに自衛隊を出す時、紛争地域を非紛争地域の定義について「紛争地域はどこですか?」「それは、自衛隊が出ていないところです」「自衛隊が出るところはどこですか?」「それは非紛争地域です」と。それでぐるぐる回したわけですが、小泉さんは完全に正しい命題について話していたのですね。明日の天気は晴れか、晴れ以外のいずれかだと。
あれはしかし、私は怒りましたね。
ただし、われら日本人は、伝統的に排中律が成立しない世界――否定でも肯定でもない、この世界――で思考しているから、政治家の論理が崩れていてもあんまり気にならないんでしょうね。そこを才能のある政治家がうまく悪用していると思います。

今回、戦後の枠組みの様々な問題点が一気に吹き出したように思います。その一つとして、自衛隊という存在が新しい意味を持ち始めたような感じがしています。自衛隊はもともと警察予備隊、反共や治安維持のために作られた、お仕着せの組織でしたが、法的には非常にうつろな存在です。そもそも武装してはいけないから、軍隊ではない。
一昔前まで戦車ではなく軍隊だとか言ってたわけですからね。
ええ、だからなんとも特別な道を歩んできた、世界でも珍しい軍事集団だと思うのですが、それが今回、この国になくてはならない集団だと思うのですが、それが今回、この国になくてはならない集団だと痛感しました。イラクでもインフラ整備とか、ソフト面で活躍する集団としてとても感謝されましたが、今回も被災地が「自衛隊の皆さん、ありがとう」という横断幕を自分たちで作って、何枚もあちこちに張ってるわけですよ。自衛隊がいなければ、被災地の復興は端緒につかなかったよ、とみんな思っています。壊れた建物や車を片付けることはもちろん、アルバムを拾って、写真を保管してくれたりした。時にはメンタルケアまでやってくれたこの集団は、ちょっと世界でも稀有な存在だと思うんですよ。非常にうつろな存在として出発しながら、独自の地位を今回、獲得したような気がするんですね。
国家は社会なくしてあり得ません。今回発動したのは、国家の機能というより、社会の機能としての自衛隊だと思います。今、うかがったのと似た話を、先日、岩波書店の「世界」の編集長から聞きました。「世界」は反戦平和、九条断固擁護という編集方針を取っていますが、被災地を回っていて、自衛隊に関する印象が完全に変わったと言うのです。道一つ聞いても丁寧だし、遺体の処理をきちんとやってくれる、と。
本当です。埋葬作業もできず、供養もグリーフケアもできない被災地の環境で、自衛隊の人たちがずらりと並んで一糸乱れず敬礼するというのが、ひとつの埋葬儀礼になりました。それを見て、みんな合掌して涙を流したんですね。
おそらく、警察予備隊ができる時の発想だった郷土防衛隊みたいな要素ですね。ある意味では自衛隊には、下から出て来る要素と、上から出て来る要素と両方あります。この下からの要素が、今回非常に可視化されたのではないでしょうか。
結局、自衛隊にとってメインの仕事は災害復旧でしょう。これまで一人も殺していないし、人を生かす、救うこともずっと徹してきたのが、ここに来て「私たちの自衛隊」となったように感じます。
でしょうね。他方、そこを否定的に見て、「それじゃまずい、これは殺す装置でないといけない」というのが、軍事官僚、防衛官僚の論理です。ですから、自衛隊が今のように国民に受け入れられている状況を防衛省の中枢は「まずいことになった」と同時に思っていますね。たとえば朝鮮半島有事の際や、尖閣諸島で中国とぶつかった時には、敵を殺す機能を発揮することになる。その殺す軍隊の機能と相容れないじゃないかと。ですから例えばロシアでは、殺す機能の軍隊と、救う機能の軍隊を分けています。後者は非常事態省といって、災害復興や大規模火災に対応する組織で、今回の震災の被災地にも部隊を派遣しています。
 これは沖縄にも関わっていて、たとえば辺野古の移設なんて無理ですよ、となった場合、同時に抑止力の問題が出てくる。そうすると、やはり自衛隊を増強せざるを得ない。しかし、歴史の記憶があるから簡単にはいかないのなら、曹以下、すなわち下士官と兵は全員、沖縄県から募集したらどうか、という考え方がこれから出てくると思います。沖縄の郷土防衛隊になればいい、よ。ただこれは、東京が嫌がる考え方です。沖縄で万単位の人間が、兵器、武器を扱える状況で、沖縄独立運動が出てきたらどうするか、というわけです。だから、自衛隊の問題を扱うとき、いろんな形で国家の矛盾が現われるんですね。
沖縄の方々の中には、現状を米軍と日本の二重支配じゃないかと感じている人もいるでしょうしね。
大田昌秀さん(元沖縄県知事)をはじめそういう認識を持っている人は知識人に多いと思います。じゃあ沖縄にとってどういう対案があるのか、なかなか出てこないのですが。

佐藤さんは、おそらくあまりにも中枢のことに詳しいから、現実的な道を探られるのでしょうが、私なんかはいまの自衛隊の状況を一つの僥倖と見て、この軍隊ならざる集団を持ったまま、永世中立国になることはできないのかなと思ってしまうんですよ。つまり、安保という枠組みを外す道です。
外国との同盟関係があれば、永世中立国とは認められません。永世中立国の条件は、隣接国家すべてが中立を承認することです。比較的最近では、一九九五年にトルクメニスタンが永世中立国であると承認されました。スイスやスウェーデンなど、第二次世界大戦中の中立国は、比較的早く永世中立国に移行できたわけです。
私はね、いま日本はその道を探れないのだろうかと思うんです。
答えをはぐらかすわけじゃありませんが、私なんかは小官僚だったから、安全保障の問題になると、どうしても発想に限界があるんですね。ただ、復興計画でも何でも、ほんとうに重要な問題に関しては夢を語らないといけない。一見、できないようなことについて語らないといけないんですよ。まずあり得べきビジョンをパーンと示して、できる可能性、不可能の可能性に挑んでいくと、いつか解決するかもしれない、平行線は交わらないとみんな思っていたけれど、リーマンという数学者は球面の上であれば交わることに気がついた。重要なのは平行線が交わることだと思います。
「平行線が交わることもあるのだから、思い切ったことを言っていいんだ」との言葉に力を得て、もう一つ言わせていただくと、天皇家が、今回やっぱり大きな働きをされたと思うんですよ。
三月十六日にビデオでメッセージを出されたことは、非常に大きいと思います。その後も何度も被災地を訪問され、頭を下げて歩かれた。
象徴天皇とはいったい何だったのか。マッカーサーとしては、昭和天皇を重んじる考え、感性はあったけれども、天皇制じたいを憲法の中で重んじる気はさらさらなかったわけですよね。自衛隊と一緒で、戦後は非常にうつろな存在として出発したわけです。たとえば認証式ってあるじゃないですか、官僚の。
いちばん偉いのは親任官ですからね。天皇の前で認証されることに官僚は大変な喜びを感じます。
だけどあれは、認証されて忠誠を天皇陛下に誓うわけではないでしょう。といって、国民に誓うものでもない。結局、役職に対して忠誠を誓うとしか考えようがない。
そこが非常に面白いところです。私は前科一犯ですが、常々不思議に思っていたのは、判決文には誰の名において、という文言がないんですよ。大日本帝国憲法下においては、天皇の名において判決が言い渡されました。昔、学生運動仲間が捕まって、京都の地方裁判所に公判傍聴闘争に行きました。古い建物なんですが、正面の上のほうに、穴が二つ開いている。あれは何だろうと言ったら、菊の紋章を取り外した跡だと。戦前は天皇の名で裁判をしていたからです。
そこが空白になったまま、戦後が始まったんですね。
ええ。たとえばアメリカのように、聖書に手を置いて証言するわけではない。誰に対して証言するのか、誰に対して誓うのかという文言はない。
そこは決して天皇ではないわけですよね。
やっぱり無なんですね。
象徴だし、無ではあるのですが、やはり今上天皇と美智子皇后が長年考えられ、模索された歩みのすえに、十六日の声明を発せられたという気がするんです。私はあれを聞いて「両陛下が国民を代表して、被災地の人々に話しかけておられる」と思いました。
私もそれを強く感じました。あそこで国体が形とって歩き出した感じがしたんですね。戦後の日本に、無限責任を負う職業はない建前になっています。命を捨ててまでやらねばならない仕事はない。いかなる場合においても、国家が国民に対して死ぬという命令を出してはならない。あのビデオメッセージの中で明示された職種、自衛官、警察官、海上保安官、消防、これは無限責任を国際基準で負う人たちですよね。
外務官僚もそうでしょう。坊さんも気分としてはそうなんですけどね(笑)。
はい、牧師も僧侶も、無限責任を負う人たちだと思います。だから牧会、キリスト教の教会の運営のことを「ゼールゾルゲ」っていうんです。「魂の配慮」という意味です。魂を配慮するということは、自分の命を捨てることが前提ですから。
両陛下は七週連続ぐらいで被災地を訪れて、しかも跪かれて人々と対話なさった。国民を代表して模範的な感情と態度を示されているという感じを強く受けました。ですから、私には天皇制と自衛隊が、新たに生まれ変わったように思えるのです。
天皇なり、皇統なり、自衛隊というものの存在自体は変わらなくても、見方が変わってくると思います。われわれは物事を、あまりにもステレオタイプで固定的な形でしか見ていないんですね。私がなぜ、他の人と時々違う発想になるのかというと、思考の鋳型として一つはキリスト教、もう一つは日本資本主義論争における労農派的な思考に比較的早い時に触れてしまったせいだと思うんです。ものを考えるとき、普遍的な型の一つのバリアントにしか過ぎないように物事が見えてしまう。
 ちょっと飛躍するようですが、今の天皇の話も、日本に特有なことには見えないんですよ。中世の実念論にすごく似て見えるんです。要するに、レアールなものは目に見えないんだけど、確実に存在する。逆に、レアールなものを言語で表すことはできない。その意味において実念論はヨーロッパで弱ってしまった。それで唯名論になって、近代的な科学の思想に近づいていくんですけれども、実念論が残った数少ない国がイギリスなんですね。それからあとボヘミア、いまのチェコです。また、ユダヤ世界にも残っている。そうすると、イギリスとイスラエルは成文憲法を持たないのです。
ああ、イギリスにもありませんね。
憲法というのは文学で表せないというわけです。ないのではなくて、目に見えないものである。憲法イコール目に見えない国体。それが必要になると、必要な範囲の中で文字になる。大憲章であるとか、権利章典だとか、そういう形で。
日本の天皇家とは、似ていますが、違いますよね。
向こうは王朝交代がありますからね。王様の首を切っちゃったりするわけです。ただ、そこには目に見えない、イギリス的なるもの、あるいは国体があって、それが王を呼んでくるというわけです。
しかもそれは、継続しているわけですね。
ええ。目に見えない国体が継続している。日本でも、いまの憲法体制の不備があらゆるところに現われてきたところで、目に見えなかった国体が三月十六日のビデオメッセージという形で現われたのかなと思います。行政が機能していないから、目に見える国体、戦前は現人神と呼ばれていたものが、可視化される形で被災地を訪ねる。いわば、国家の生き残り本能みたいなものが現れているかのように感じました。イギリスやイスラエルの感覚から見ると、日本で起きていることは意外とわかりやすいのではないでしょうか。
本当に政治が賑やかなばかりで頼りなかったですから、天皇家の静かな存在感が際立ちました。

玄侑先生の『福島に生きる』を読んで、私は戦前の不思議な思想家と非常にアナロジーを感じたんですよ。権藤成卿です。権藤成卿は、二・二六事件、五・一五事件の黒幕だったと同時にアナーキストからも慕われていた。戦後、権藤成卿の著書の復刻をしている黒色戦線社は、連続企業爆破などをしたグループを支援しているアナーキスト集団です。右翼とアナーキストの双方から非常に尊敬されていたこの思想家は『君民共治論』という本を書いています。臣民の中で「臣」というのは国家から給料をもらっているやつで、これが君と民の間に入ってろくでもないことをやる。だから「臣」を外して、君と民が直結するような体制を作らないといけない、と。
それは、私がいま考えていることに近いですね。
一九三〇年代に権藤成卿が信州に行って座談会をやると、そこで農民が怒るわけです。「いまの政府はなんちゅうボンクラなんだ」というと、権藤成卿は「そのボンクラを選んだのは誰だ」と切り返す。「いま経済は大変になっているけど、米や野菜を地道に作っていればこんなことにならなかった。おまえたちは金儲けしたいと思って蚕に手を出して、マネーゲームに走っただろう」と言うんですね。「政治家や財界が腐敗していて、官僚が腐敗していて、軍だけがきれいなはずはない。自分たちの力をもう一回信じるんだ、自治なんだ」と説くんです。自治のネットワークを作っていって、それの蝶番のようなところに天皇がいる。権藤成卿は、律令制以前の日本の国家観を取り戻さないといけないと言います。律令法による支配は中国から入ってきた異質なものである。日本はそれ以前の社禝、すなわち共同体国家だと。社と禝、その土地ごとの穀物と土地、それを拝んで祠を作っていく。このネットワークは祭祀共同体であるというわけです。危機的状況において真面目に考えている人は、自治、ネットワーク、それから生者と死者の間の問題とか、そういったところで、土俵が似てくると思うんですよね。
確かに今回、ハードが壊滅的にやられて、そういったソフトが露出して見えた気がします。まず何かが終わったんだなという感じが最初にありました。だんだんと、何が終わったのかと考えていったとき、間違いなく政党政治が終わったと思いますね。
思います。その結果出てきたものは、やっぱり一種の全体主義です。部分の代表が切磋琢磨して折り合いをつけるという政党ではなく、全体の代表みたいなのが出てくる。しかし、社会には実際、利害対立があるから、全体の代表っていうのはフィクションなのですが。
今や、政治家が部分の代表にすらなっていない状況になってしまいましたよね。
おそらく今、福島のチャレンジとして出てきてるのは、地域のエゴに徹することだと思います。「地域エゴ」という言葉を恐れないことですね。
それはたしかに地方自治の問題として考えるべきことだと思います。国政に関して言えば、民主党と自民党の差はほとんどニュアンスの差くらいしかないわけで、極端な言い方をすると、ソ連崩壊と共に政党じたいの存在理由がなくなったようなものですね。
そう思います。
階層というものがあって、それぞれの階層を代表する政党が議論して合意を形成するのが政党政治であったとすれば、政党の、あるいは国会の存在意義は合意を形成することじゃないですか。その機能をまったく失っている現状を見たら、やっぱり政党政治は終わったと思わざるを得ない。
それと共に、これも菅さんではっきりしましたが、「約束をした、しかし約束を守るとは約束しなかった」という新しいゲームのルールが政治の世界に入ってきてしまった。非常にゲームが複雑になりました。
 ただ、これもキリスト教の世界ではよくあることで、たとえばローマ法王(教皇)が三人いた時代があるんですね。十五世紀のことです。それで教会を統治しなきゃいけないと。それに対して、ヤン・フスというボヘミアの宗教改革者がいました。
ヤン・フス、チェコの人ですよね。たしかバチカンが今なお異端の処分を解いていないのはフス派だけですよね。
「いまの教会は腐りきっている、悪魔の手先が教皇の顔をしているに過ぎない」と言ったもんで、お話を聞かせてくださいということになった。コンスタンツで教会を統一するための会議をやると呼び出されます。危ない、そんなところに行ったら殺されると渋っていると、「絶対に大丈夫です。身の安全は保証します」という安道券という文書を教会が出した。それで行ったら……。
火あぶりでしょう。
約束はしたけれども、約束を守るとは約束していなかった、と(笑)。チェコというのは思想的にはヨーロッパの弧島です。中央ヨーロッパにありながら異質で、私はそこに魅かれて、大学と大学院でチェコ神学を専攻して、未だにチェコにはには関心を持っています。ドイツの脱原発論議も、チェコ人の視座から見ると、非常に嫌な感じがするんですね。ドイツが脱原発をすることで、チェコは原発増設になりました。ポーランドも、チェルノブイリがあったので原発は一つもなかったのですが、今度、新設します。これはドイツのエネルギー需要を賄うためですよ。要するに、かつてナチスがアーリア人種を指導的民族とし、それを維持する民族としてチェコ人やハンガリー人、奴隷としてスラブ人を位置づけましたが、そのヒエラルキーが、経済の交換の論理の中で上手に埋め込まれてしまったように見えるんですね。
さっきの「構造的差別」ですね。日本の原発の問題についても触れなければいけないでしょうが、これだけの地震国である日本が、世界第三位の原発国という状況はやっぱり……。
よくない。それから、この福島の経験を経て、原発をなくしていくというベクトルは国民的コンセンサスで、有識者はやはりその方向で責任を持たないといけないと思います。どうしてかと訊かれても、それは理屈がない世界だと思うんです。最も重要なことには理屈がない、と。
私も「福島に来てもらえばわかります」と言うしかない部分がありますね。
要するに、たとえば人間の生命の有限性をどう考えるか、そういったところに議論を飛躍させてガタガタやるのではなく、駄目なものは駄目なんだと。それはなくしていくんだ、ということに尽きます。

私が『福島に生きる』を読んで非常に感銘を受けたのは、いまの太陽電池みたいな発想というのは、結局、エコロジーでも循環型のエネルギーでも何でもなく、二十年後には大量の廃棄物を出すということです。またシリコン、ケイ素の有害性について、データがきちんと出ていない。
そうなんです。この世に完全に再生可能なエネルギーなんてないでしょう。脱原発の後のことも安易に考えてはいけないのに、「脱原発」に依存していたりする。ただ、原発事故後の国の慌てぶりや、何もわかっていなかったことが露見した状況で考えると、あれは管理できるようなリスクではないですよね。ハザードというか、カタストロフィーです。しかし、いま混乱を助長しているのは、各省庁が自分の省庁のことしか考えていないことです。
 たとえば、十一月に内閣府が低線量被曝の管理リスクについてのワーキンググループを開いて、低線量被曝の影響はどうなのかということを政治的に判断するっていうわけですよ。そんなこと、データもないのにやめてほしかった。
それは政治で判断できないですよね。もしそれをやるとするならば、ロシアにロスアトムという会社があります。これは四、五年前までロシア原子力庁という役所でした。そこにチェルノブイリ関係の低線量の被曝に関するデータがあります。日露の関係がしっかりしていれば、早い段階で取ってこれたものでした。
菅さんが外務省をちゃんと使いきれていればできたことじゃないでしょうか。
ただ、おそらく今の外務省は人脈が切れているんです。事故直後、半ば冗談、半ば本気で言ったのですが、「鈴木宗男さんを二週間、檻から出しなさい、ロスアトムのキリエンコ社長(元首相)は鈴木さんの頼みだったら聞いてくれるから」ということです。
重要な二人を追い出してしまったんですね(笑)。それで内閣府が十二月に出した結論は、国が暫定的に示した基準値、年間二〇ミリシーベルト以内であれば大丈夫、ということでしたね。
例の、あの大問題になった事件ですね。
ええ。あれを全面的に肯定したんです。内閣府がそういう動きをしたのは、おそらく裁判に影響するからでしょう。ちょうどその頃、二本松のゴルフ場が裁判に訴えたんです。「ゴルフ場を除染して返してほしい、来なくなった客に対する賠償をしてくれ」というわけです。両方とも敗訴になりました。除染の方法が確立していないから東電に除染を命ずることはできないし、毎時三・八マイクロシ−ベルトを下回っているのだから、客が来ないのは来ないほうの勝手だ、というわけですよ。
自己責任というわけですね。
はい。なにしろ「無主物」ですから。また内閣府がそういうことをやっている一方で、今度は厚生労働省が四月から基準値を下げると勝手に言ってきや。文科省は文科省で、五〇〇ベクレルといっていた学校給食の基準値を、四〇ベクレルに下げるという。これはいったい何なんでしょう。
いや、まさにこれは、民主主義の危機なんですよ。近代の民主主義の基本は間接民主主義でしょう。あえてうんと図式化すると、間接民主主義では、投票して、われわれの代表者を選挙で選ぶ。その後、市民は何をするかというと、政治に関与しない。政治に関与せず、欲求を追及する。文化活動でもいいし、生産活動でもいい。そして税金を払う。そうすれば世の中うまく回るんだっていう話です。国民によって選抜された専門家たちに国家の運営を任せる。ところが、それが機能していない。たとえば、休止中の原発を動かすかどうかは、世論と関係のない話ですよ。
はい。なにしろ「無主物」ですから。また内閣府がそういうことをやっている一方で、今度は厚生労働省が四月から基準値を下げると勝手に言ってきた。文科省は文科省で、五〇〇ベクレルといっていた学校給食の基準値を、四〇ベクレルに下げるという。これはいったい何なんでしょう。
いや、まさにこれは、民主主義の危機なんですよ。近代の民主主義の基本は間接民主主義でしょう。あえてうんと図式化すると、間接民主主義では、投票して、われwらえの代表者を選ぶ。その後、市民は何をするかというと、政治に関与しない。政治に関与せず、欲望を追及する。文化活動でもいいし、生産活動でもいい。そして税金を払う。そうすれば世の中うまく回るんだっていう話です。国民によって選ばれた政治家と、試験制度によって選抜された専門家たちに国家の運営を任せる。ところが、それが機能していない。たとえば、休止中の原発を動かすかどうかは、世論と関係ない話ですよ。
本来は国会で議論して決めることでしょう。
政治家よりも、原子力の専門家が「安全だ」と言ったら安全だということで技術的問題として処理すべき性質の事柄です。ところが、その専門家の言っていることが信用できない。
それは学問や科学が、政治や経済に従属しているということでしょう。その結果誰も信用できないから、自分で考えなさいという雰囲気も構成されています。
専門家がうそをつく。しかも。それを監督するべき政治もうそをつく。お金も動いている。それぞれの役所は、自分たちの身を守ることに関して天才だから、裁判のため、あるいは子供を学校に通わせている保護者たちから文句をつけられないようにするために、滅茶苦茶な基準をたくさん出す。その結果、国民に起こることは何か。「信用できない」ということです。「一つだけ信用できることがある。政府は信用できないということだ」となっているのが現状です。そこだけはコンセンサスが得られている。
いま、ほとんどの原発が稼働していないのも、国会の議論の結果でも何でもなく、住民の意見を感じ取った知事の判断でしょう。私はこういう動きが普遍化してくるような気がして仕方がないんです。政党政治が機能していない。
私もまったく同じ感覚です。
政治システムとしては、基礎自治体が非常にステディな感じがします。国と県ははた迷惑というか、困った存在ぶりを発揮している。選挙によってわれwらえが選んだ国会議員たちが、われわれの意見を集約して頑張ってくれている、なんて誰も思っていませんよ。
その点においてはロシアに似てきています。ロシア人にはわれわれの代表を選ぶという感覚はまったくありません。悪い政治家と、うんと悪い政治家、とんでもない政治家が候補者として空から降ってくる。選挙制度というのは、うんと悪い政治家と、とんでもない政治家を排除できるのは良い点だ、というわけです。それはあまりにシニカルじゃないか、とロシア人に言うと「佐藤、おまえは選挙制度の歴史についての勉強が足りない」と。「選挙の起源は古代ギリシャだ。オストラキモス(陶片追放)だ。危険だと思う政治家に投票して、十年間追放したじゃないか。あれが選挙の原型だから、いまのロシアには正しい選挙の原型があるんだ。だからプーチンは支持されているんだ。確かにプーチンは悪い。しかし、それ以外に出てくるのは、もっと危険な政治家か、私利私欲だけを追求するとんでもないやつらなんだ」と。
 ロシアでは国民が「小選挙区を廃止してくれ」と言ったため、いま、小選挙区がないんですよ。四五〇が全部比例だけです。なぜかと言うと、小選挙区だとマフィアの親分みたいなやつが出てきて、怖くて仕方がない、というわけです。
無党派層の多い日本の現状では、小選挙区だとブレが拡大されますよね。今後の日本は、小党乱立しかないんじゃないかっていう気もします。
その可能性はありますよね。ただ、いまの選挙制度では小党ができにくい。また、小党が乱立すると、小沢一郎さんのグループあたりが、イタリアのベルルスコーニ党みたいになるんじゃないかと思います。

地方の草の根からの自治、まさに基礎自治体はしっかりしている。国も障害だし、県も障害になっている状況の下で、日本の中で大きな変動が起きてくる。日本の中で小党乱立して議論をしているとき、その隙を狙っている外国があることは間違いありません。
小党乱立といっても、中間を省いちゃうんですよ。つまり基礎自治体の代表者によって国会を作る。
一院でね。いいかもしれませんね。
日本の参議院と衆議院に違いってあるんでしょうか。参議院を「良識の府」だなんて誰も思ってないでしょう。
いまの国会議員の何がいちばん問題かと言うと、偏差値が上がっちゃたことなんですよ。地元の顔役とか、叩き上げの人たちがいることによって、国会が全体の代表になるわけなのに、みんな学校秀才になってしまって、与えられた教科書を暗記して、一時間とか一時間半で答案に復元する能力ばかりが長けている。官僚と似ているんです。
官僚はまさにそれですものね。
同質的な人たちと同質的な議論をしている。新聞記者もみんな均質で優等生みたいになっちゃた。そうすると、全体の代表じゃないんですよ。ただ、基礎自治体にはユニークな人がいますからね。そういった人たちが出てくるところが面白いと思うんですよ。
エリートの文化は終わったということでしょうか。
エリートと大衆の差異は存在するんですが、それをつなぐ回路がなくなっちゃった。自分をエリートだと勘違いしている連中が、自分のためだけにやっているのが現在の政治、行政の特徴です。
エリートでも現場に来ればまだいいんですけど、何度言っても決して来ないんですよ。「除染計画を立てました。これだけのお金がかかりそうです」という机の上の計算はうまいんです。「じゃあ、やろうか」という段になると「すみません、水道が出ませんので、できません」。本当に、こういうことが実際に起こってるんですよ。
官僚はともかく、あの金魚鉢というか、檻の中から一回外に出さないと駄目です。
結局、官僚の縦割りなどを変えず、利用するやり方が現実的なんでしょうか。
官僚の中で使えそうなやつを見つけてくるんですよ。それでネットワークを作ってからズドンと変えちゃう。いまの機構改革は具体的な人の問題を考えていない。こいつらとこいつができそうだ、っていうのを見ておくことが重要だと思うんですよね。
そうするしかないんですがね……。たとえば官僚は、隠然たる勢力を持っています。それから、財界があり、市民がいる。どうも菅さんの時は、これらが三すくみでした。
『福島に生きる』でも書いておられましたね。
ええ。どっちにも行けないまま、結局、菅さんは市民についたという気がするんですよ。野田さんは結局のところ、官僚についた。
いまのこの政治の状況、三すくみとか、官僚を動かしたりすることについて、どのように考えればいいですかって訊かれると、私は「『桃太郎』を読め」と言うんです。
犬と猿と雉ですか。
仲の悪い者同士を統率して、鬼を退治しに行くという『桃太郎』はリーダーシップ論です。「犬と雉と猿のそれぞれに利益誘導をしながら、なおかつ喧嘩をしないようにまとめるのがリーダーシップなんだ、『桃太郎』ぼ伝統を回復するんだ」とか言うと、政治家や官僚はバカにされているんじゃないかと思うようですけど、僕は真面目に言っています。
猿の知恵と犬の行動力と、雉の情報収集力ですか。鬼はその場合、何でしょうか。
その場ごとで変わると思うんですよ。TPPだったら鬼はアメリカです。
私は対決はやめたほうがいいと思います。
私はTPPについては賛成論でずっと論陣を張っています。なぜかと言うと、五一年のサンフランシスコ平和条約のとき、全面講和かで、片面講和かで、片面講和を取った。六〇年の新安保条約でも、日米安保か、中立かで、安保を取った。実はTPPも同じ構造だと見ています。これは外交屋の感覚なんですけど、あれは自由貿易でも何でもない。ブロック経済です。アメリカの帝国主義的な再編の中で、アジア太平洋の中でアメリカは一つのブロックを作ろうとしている。
ローンとクレジットに支えられたアメリカの経済は、すでに破綻しているように思います。内需が上げられなくて、彼らはマーケットを広げるしかないわけですよね。
ええ。とりあえず日本から取っておくっていうことと同時に、中国を外部にしたメカニズムを作りたいと思っているんですね。
しかし結局、実体経済ではないじゃないですか。
ただ、実体経済にまた今度、逆に近づいてくると僕は見ているんですよ。
そうでしょうか。
棲み分け型の社会になってくると思うんですよ。EUっていうのは、やっぱり完全な一種の共栄圏です。ロシアも共栄圏。中国も共栄圏。だから日本もどこかの共栄圏に結局入っていくことになっちゃうと思います。
しかし、共栄圏とはいえ、あれの主人公は金融経済そのものでしょう。たとえばギリシャにしてもイタリアにしても、IMFなどが資金供与して助けているのは中央銀行であっても、国民じゃないですよね。
もちろんその通りです。でも、うんと突き放して言うと、資本主義ってそういうものですよね。
うーん、ニクソンショック以後はそうなってしまった。
やっぱり貨幣論の話だと思うんですよ。貨幣とは何か。貨幣っていうのは、結局いまの主流派経済学、近代経済学の系統だったら、貨幣論ってないんです。貨幣というものはどういうふうに生まれてくるのか。これはマルクス経済学の独壇場だと思うんです。結論から言うと、貨幣って、関係性、因果から出てくるわけです。
貨幣が貨幣を生み出す。
そうそう、まさに妄想の中で因果から生まれた虚像、それを実体と勘違いして、そこからさらに実体が生まれてくるという、誤った宗教を持ってしまっているわけです。これを脱構築していくには、一回その中に入らないといけない。
いや、入るのは危険でしょう。こえは国家主権をかなぐり捨てた貨幣戦争ですよ。
でも、その中に毒を入れて、脱構築していくしかないと思うんです。
いま、実体経済に対して、金融、投機マネーの負債額だけで、GDP総額の十四〜十五倍あるんですよね。これはもう、回復不能というしかない。
短期的に円が強いわけですから、石油とか、資源開発とか、ニッケルとか、実体を持っちゃうわけですよ。これは帝国主義政策ですけどね。金融システムが全部崩壊しても、実体として持っているところは強いですよ。ただそうなったときには、相手は軍隊で取りに来ますよね。それを防ぐためには、うちからは取られないという環境を作っておかないといけない。僕はそんな発想なんですね。
島国なのに、日本はGDPの貿易依存率が一〇%台と低いわけです。中国や韓国は四〇%を超えています。敢えて無謀な戦いをする必要があるのか、と私は思いますね。うちからは取られないっていう発想をするならば、やっぱりすべての戦いから抜けて、永世中立国になることですよ。
永世中立国といえば、第二次世界大戦時の中立国にベルギーがありました。戦争が始まってからベルギーは、自分たちは大丈夫だと思ったんですよ。ところがドイツが侵攻してきた。その時、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世はこう言ったわけです、「必要は法律を知らない」って。
それはいま、通用しないと思うけどなあ。
いやいや、やると思いますよ。ロシアやアメリカ、中国を見ていると「必要は法律を知らない」とか「約束はしたけど、約束を守るとは約束しなかった」とか、やっぱりどうしてもこういう感じが強くなっちゃうんです。

今日は、眠っている魂の一つが揺さぶられました。キリスト教の世界では、プネウマ(霊、スピリット)とプシュケ(魂、ソウル)を分けて考えます。ところが、プネウマ、息は一つなんだけれども、プシュケは複数あるんだということに、玄侑先生の指摘でハッと気づきました。いままで自分ではどうして整理できなかったのか。たとえば永世中立の問題、アメリカの問題、それから官僚の問題も、実は私は宗教の問題だと思うんです。見える世界と見えない世界の境界線の問題、生命の意味の問題というところまで踏み込まないと、この問題に対する方向性は出てこない。物を書く人間で、宗教に何らかの形で触れた人間は、政治家や官僚や経済人たちに、そこまで踏み込む必要があるのだということを理解させる必要があります。もし、そこで共通テーゼが出てくれば、不毛な理論からわれわれ日本人が抜け出せるんじゃないかと思うんですよ。いくつもの「対話」だって実際は二つのモノローグで終わってしまうことが多い中で、本当の対話を試みることをやりたいなと思いました。
佐藤さんいとっては、私では物足りないんじゃないかと思うんですが……。
何をおしゃるのですか。本当に勉強になります。『福島に生きる』のように、時局的なものを書くことは、作家にとって非常にリスキーなことじゃないですか。
非常に抑えたものになりました。客観描写に徹するというか。
でも、客観描写に徹するが故に、叙景詩のような魅力があります。
しかし、佐藤さん、ものすごくいろんなことに意識を張り巡らそうとしておられますが、苦しくないですか?
苦しいですよ。でも、こういうような形でやるっていうことは、やっぱりキリスト教的な鋳型の限界なんでしょうね。何でもかんでも「知は力なり、力は知なり」みたいな感じです。私の場合はカルバン派なんですよね。罪の概念ってキリスト教ではいくつもありますが、カルバン派では怠惰は罪に数えられているんですよ。
コ―リング(calling)、つまり天職ゆえの勤勉さ、ということですね。
恐らくそういうことなのだと思います。情報はとにかく全部入れていくんです。それがやっぱりよくない。確かに、私には雑多な関心がありますが、最終的に何が来るかっていうと「われらは生き残りたい」です。生への執着なんですね。しかも国際社会の中で名誉と尊厳を持って生き残りたいと。
いま、関心があることといえば、どう考えてもおかしいとしか思えない。やっぱり江戸〜ちゃんと繋ぐべきだっていう思いがあります。
それは、まさに私もいま、非常に興味を持っているテ−マの一つです。江戸と明治の連続性と断絶性ですね。沖縄を見ていても、いまいちばん問題になっているのは「明治」です。要するに、琉球処分なんですよ。
政府は使いたがらない言葉ですね。国家の問題に関わるし。
ええ、日本政府が触れたくない条約が三つあります。琉球修好条約、琉仏修好条約、琉蘭修好条約。
日本になる前に琉球が独立した王朝として条約を結んでいたわけですね。
その三つの原本がどういうわけか、東京の外交資料館にあるんです。首里城を開城するときに無理やり持ってきた。これは、これから沖縄と日本の関係できっと爆弾になると思うんです。沖縄の独立運動という形じゃなくて「われわれは独立国であった」ということを再発見した時です。その時の再発見の古文書が三通あるわけです。フランスとオランダとアメリカは、少なくとも国家として認めていた。
政府は、沖縄がいつ日本に組み入れられたのか明確ではない、と言っているわkじぇでしょ。
そう、それが政府の答弁です。これは私の知的な関心でもあるんで、鈴木宗男さんい問題意識を伝えたら、二〇〇六年九月、国会に戻った時にいちばん最初に質問書で出したんです。沖縄はいつから日本だったのかと。そうしたら当時の安倍晋三総理の名で、明確に言えないっていう答弁が出ました。
 まさに、いま日本人が抱えている問題、トポスっていうものが、この対談の中で集中的に出てきました。キリスト教的な発想からすると、これは上からの介入で「おまえやれ」と、今日ここに連れて来られたんじゃないかと思います(笑)。
この対談は、今後も続くっていうことでしょうか(笑)。
玄侑先生の胸を借りて、魂の根底に触れる対話をしたいです。
佐藤さんの胸板のほうがよっぽど分厚いじゃないですか(笑)。
 
     
   「文學界」2012年3月号(文藝春秋)