幸せはお金じゃ買えない、というと、誰もがなんとなく頷きそうだ。ところが最近は、お金で買えないものがどんどん少なくなっている。ライブドアの堀江氏は「お金で買えないものはない」と言ったらしいが、そうだとすれば幸せなどどこにもないということではないか。
 お金で買うという行為は、基本的には等価交換によって支えられている。二つのものが等価であるということはある種の「みなし」だが、そうであるなら「値切り」が常に有効ということになる。自分がそれを等価とは思わないという主張は、必ず言ったほうが得ということだ。不満や不機嫌も、商品を値切るためには有効な武器になる。
 子供たちが授業をまじめに聞かないのもそのせいだ、という主張もある。つまりまじめに聞くことは、商品を定価で買うような愚かな行為だというのである。
 給食費をちゃんと払っているのだから「いただきます」を言う必要はないだろうと主張した母親がいたが、これは逆にビタ一文過剰には支払いたくないということだ。授業も給食も、今やできるだけ廉く買いたい商品になってしまったのである。
 どうも最近の子供たちは、家庭内での立場ができるまえにいっぱしにお金を使うらしく、そのことをこうした事態の遠因だと指摘する人もいる。たとえば四、五歳でも千円もっていけば店では一人前扱いされてしまう。「いらっしゃいませ」から「どうぞまたお越しくださいませ」まで、マニュアルどおり大人並みに丁重に応対されるから、早い時期に消費する主体としての自己に自信をもってしまうらしいのである。
 消費者の考えることに大差はない。誰もができるだけ廉く、ふだんは買えないものまで有利に買いたいと考える。ところがじつは、この買い物リストにとんでもないものを入れてしまったために幸せを遠ざけている。そのことに、多くの人は気づかないのである。
 とんでもない買い物とは、本当はお金では買えないものだ。一言でいえば、それは「時の経過とともに変化した自分」である。
 修行はむろんそうだが、教育も医療も本来はそのようなものだった。そして人は、いつしれず変化した自分と周囲との在りように、幸せを感じる生き物ではなかっただろうか。
 医療の現場から始まったインフォームド・コンセントとは、平均的な「時の経過」のアウトラインを商品化しようという試みだった。実際には手術でも投薬でも、やってみないと本当のところは分からない。しかし分からないでは商品にならないから、最小限の変化の予測のみで無難な未来を叩き売りしたのである。
 教育界もこぞって自らの商品化に躍起である。各大学が出している学習便覧など、工場の製造マニュアルみたいなものだろう。
 いわば無時間化された時間が、そこでは売られているのである。予め買っておいた商品の一部に病気の治癒や学校の卒業、就職があるのだから、それで幸せなど感じるはずもない。ただその通り進まなかった場合の不平不満ばかりを感じる寸法である。
 時の経過による変化を、先物取引のように売るのも買うのも、いい加減にやめなくてはならない。
 たぶん幸せとは、売ることも買うこともできず、予測さえしなかった無常なる経過を通して抱く感情なのだろう。
 私は最近、坐禅中に幸せを感じることがある。しかしあなたが真似ようとしても無駄だ。真似して目指せばそれはすでに先物商品だから、幸せとは別物なのである。
「PHPほんとうの時代」 2007年6月号