「寒九(かんく)の雨」という言葉がある。大寒から九日目くらいに降る雨のことだが、大寒以後なら雨ではなく雪だろうと普通は思う。しかし自然の為すわざは、我々の思考よりもずっと複雑で、非合理である。
 「それが自然だ」と今の我々が云う場合、じつはそのような複雑微妙で理解に苦しむ現象は割愛していることが多い。言い換えれば、自然を理解できる程度に矮少化
した我々にとっては、あらためて「不自然」も加えないと「自然」にならない。もともと「寒九の雨」も自然であることを、憶いださなくてはならないのである。
 まったく理解できない「不自然」な現象に遭遇した古代の人々は、その多くを「霊異」と見た。主に恨みをもって亡くなった人々の霊の祟りなどによって、日照りや飢饉や雷も起こり、業病などにも罹ると信じたのだ。
 この考え方は、古来の「荒御魂(あらみたま)」の神という発想にも通じるが、要するに古代の神と悪霊は似通っており、いずれも「不自然」な現象を「自然」に繰り込むための装置と云えるだろう。今はそれを「合理化」と云うが、非合理な「自然」さえ合理化したいのが人間なのである。
 「不自然」に「霊異」を感じるそのようなとき、仏法は仏像や経典を伴って外国の神の一種(蕃神)として将来された。百済の聖明王は、その上表文のなかで「仏法こそ無限の幸福をもたらしてくれ、物事が思いのままになる」旨を書き綴っているが、それから判断すると、仏法は当初からかなり現世利益的、別な言い方をすると、合理的に「不自然」を解消するべく受容されたと云えるだろう。つまり悪霊退散の効果も大きく期待されたということだ。
 当時の仏法、特に密教は、人々の期待に沿って陰陽師などと共に祈祷の力を競う場面が多かった。「空」の思想を説いた『大般若経』やそのエッセンスとされる『般若心経』なども、そのようなお経と受けとめられたのだろう。中国で玄奘三蔵が訳した経典を玄宗皇帝がとても喜び、法会を催してからわずかに五十年後、元明天皇は和銅元(七〇八)年に『大般若経』を年に一度転読するよう命じた。またその後聖武天皇は国家の安寧を念じ、天平七(七三五)年には宮中や大寺院で大般若会を営み、全国への普及も促すのである。玄侑宗久
 「祈り」ということをつらつら考えるとき、祈祷に「空」を説いた経典が用いられたことは偶然とは思えない。やはりどこかに、深く仏説を会得した人間がいたのだろうと思ってしまう。
 『般若心経』の説く「色即是空」という言葉は、この文脈で簡単に云ってしまえば「不自然も自然なんですよ」ということだ。
 我々が認識する外界、いや感覚さえも、経典によればすでに無意識に「行」(サンスカーラ)という力に染まり、「わたし」に都合よくアレンジされている。何を見聞きしても、それはすでに「自然」そのものではないということだ。
 自然そのもの(実相)は「空」であり、時々刻々関係性のなかで無常に変化する。そこには不思議な矛盾もないのだが、一旦我々が認識した「色」だけが時に「不自然」にも感じられる。そうであるなら、「不自然」な現象をなんとかしたいという場合、目指すべきは、何よりそのように感じる「わたし」の変質ではないだろうか。
 大般若経六百巻転読祈祷会では、初めに『般若心経』が三回繰り返される。それだけでも僧侶たちは思考は止んでいるが、さらに六百巻の経典を一巻ずつ取り上げ、大声で経題を唱え、パタパタと翻転しながら今度は陀羅尼(ぎゃーてーぎゃーてー)を唱える。最後に「降伏一切大摩災障成就」と唱えて経典を置くと、また次の一巻である。
 私は、僧侶たちのこの三昧な状況こそが、「空」という「自然」への参入だと思っている。目や耳や手や体ぜんたいが、まるで子供の頃のように活発に動き、時が過ぎる感覚さえ休んでしまうのである。
 できることなら、聴衆も一緒に『般若心経』や最後の陀羅尼を暗誦してほしいと思う。暗誦する「響き」という「自然」に、普段の「わたし」を没入させてしまうのである。
 そんな状況では、「霊異」という「不自然」のありようはずもない。自分のなかの「自然」の力が目覚めて増強してくると、外界にもあまり「不自然」を感じなくなるのではないだろうか。世界はあくまでも、こちらの意識に応じた姿しか見せないのである。
 長年の祈祷の習慣で、お礼には「家内安全」や「商売繁盛」など、およそ仏教的でない願い事のハンコも押したりする。しかし祈祷の本道は、状況がどれほど自分に不都合になろうとも、それを「自然」な変化と受けとめられる安らかな心を涵養することだ。「災厄消除」も、普段「わたし」に隠されている「いのち」という「自然」の目覚めによって叶う。災厄とは、もとより「わたし」の「色」に対する解釈だったのである。
 手に負えない「自然」の象徴として中国人の創造した龍が、あくまでも仏法の守護神であることを忘れてはいけない。西洋のドラゴンが悪魔の使いであるのとは大違いなのである。
 法鼓(ほつく)という大きな太鼓で呼び出された自由な龍が、災厄のなくなった三昧の天に悠々と遊ぶ。



※「法鼓」という太鼓を叩くことで仏法の守護神である龍を呼び出し、同時に堂内の空気を引き締める。「角打ち」と呼ばれる七・五・三のリズムは近づいてくる雷鳴を表す。
「文藝春秋SPECIAL」2007季刊夏号