実相を自在に観る眼のひらけた菩薩は、深い「般若波羅蜜多」を行じていらっしゃったときに、「私たちの体や精神作用は全て自性を持たず、これはいわば縁起における無常なる現象なのだ」と見極められて、一切の苦悩災厄から免れたのである。
(その観自在菩薩が云うには)
 舎利子よ。あらゆる物質的現象には自性がないのであり、しかも自性がないという実相は、常に物質的現象という姿をとる。
 およそ物質的現象というのは、すべて自性をもたないのであり、逆に自性がなく縁起するからこそ物質的現象が成り立つ。(人間の眼に観察できる物質的現象であるというのは、そういうことなのである。)
 同じように、感覚も、表象作用も、意志も、意識・無意識を含めたどんな認識も、それじたいに自性はなく、縁起のうちに無常に生滅している。
 舎利子よ、この世においては、全ての存在するものには自性がないと云えるだろう。
 だから(我々の観察と違い)、生じたり滅したりもしないし、汚れたりきれいになったりもしない。また減ることも増すこともない。(私たちがそう感じるのは、ただ縁起によって出逢う無常の現象を、概念によってそのように解釈しているだけなのだ。)
 だからこの自性がないことを徹見した立場で見るならば、感覚にも表象にも意志にも認識にも自性はなく、また眼も耳も鼻も舌も身体も心も単独で恒久的に存在するのではないし、その六根に捉えられる形も声も香りも味も、また触れられるものも思われる対象も、それ自身が自性をもっているのではないと知るだろう。(全ては感覚と対象との「出逢い」による暫定的な出来事なのである。)
 だから、この立場からは「無明」が本来的に存在するなどとは認められない。つまり十二因縁の最初から最後まで、当然「老死」までが悉く自性をもたない、ということになる。
 むろん(四諦で確定される)「苦」も、その発生も、それを滅する可能性も方法も、ない。(それは名づけと概念によって確からしく見えるが、いわば幻想なのだ。)
 ここに述べようとする「般若波羅蜜多」は、結局「智」と名づけられるものではなく、「得る」べき何かでもない。「般若波羅蜜多」とは、(本来の「いのち」という実相の発現であるから、)別にあらためて「得る」ものではないのである。
 真の求道者である菩薩は、だからこの「般若波羅蜜多」を実践して心に何のわだかまりもなくなった。わだかまりがないから恐れもなく、一切の邪見偏見から自由になり、永遠なる心の静寂を得られたのである。
 過去・現在・未来のすべての仏と呼ばれる人々は、この「般若波羅蜜多」を実践することで、この上ない普遍的人格に目覚めるのである。 
 だから今、知るべきである。
 「般若波羅蜜多」とは、大いに神秘的な咒文なのであり、それは光輝ある咒文であり、他に比類のない最高の咒文なのだ、と。
 つまり、この咒文は世の一切の苦悩を取り除くことにおいて、まさしく真実であるし、一点の虚妄もないのである。
 ではその「般若波羅蜜多」の咒文を示そう。

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ガテー・ガテー・パーラガテー・パーラサムガテー・ボーディ・スヴァーハー)
 ここに智慧の完成のための重要な教えを終わる。


*1 「般若波羅蜜多」
「智慧の完成」と名詞的に訳されるが、あくまでも実践による動詞的事態。
*2 「五蘊」
「色・受・想・行・識」という人間を構成する五つの働き。「色」は形あるもの、人間になぞらえれば「からだ」で、残りの四つは精神の作用を表す。からだ(色)が外界と触れて感覚として受けとめ(受)、知覚し(想)、何かをしたいという意志が生まれる(行)。その意志を、実行してもしなくても、脳には何らかの認識が生まれて蓄積される。それが、「識」。これら五つの働きのそれぞれを、私たちは確固とした「自分」だと錯覚してしまう。
*3 「色」「空」
ここでの「色」は、感覚によって捉えられるあらゆる現象のことで、それ自体が単独で成り立っているわけではなく、無限の可能性の中で絶えず変化しながら発生している(縁起)。たとえばモノは見え続け、聞こえているだけで変化し続け、それを見たり聞いたりする私たち自身もまた、変化し続けている。変化するからこそ関係し合え、関係するからこそ見えたり聞こえたりもする。全ては時々刻々と変化し続ける関係性の中の出来事で、釈尊は、「色」の背後にある「空」という実相を観るように説いた。
*4 「無明」「老死」
「空」を知らないために、「無明」から「老死」に至る「苦の発生システム」を信じ、十二因縁などという概念から抜けられないのだ。菩薩の眼から観れば、そのような因果律こそが却って「苦」を生み出すのは明らかだ。
*5 「苦集滅道」
「苦」は存在する、「苦」は何らかの縁が「集」まって生じる、生じたからには「滅」する、そして「滅」するための実践法(「道」)。この四つを釈迦は「四諦」と説明したが、そもそも「苦」と呼ぶから「苦」も確定するのであって、ものごとは名づけられた瞬間に、全体から切り離されて概念となり、「空」から遠ざかってしまう。
*6 「得」
「空」は「私自身」も全体の中に溶け込んでいる状態だから、「私が」智慧を「得た」と思いこんでいるうちはまだ「般若波羅蜜多」を実践しているとはいえない。「般若」とは、「私」という概念が生まれる以前からすでにある「いのち」の自覚でもある。
*7 「けい礙」
わだかまり。「私」がなくなって「いのち」本体から観ずれば、あらゆるけい礙はなくなる。
*8 「あのくたらさんみゃくさんぼだい」
最高の悟り。
*9 「咒」
選び抜かれた音であり、意味を超える響き。直接「いのち」を共振させる。
<経文の表記、読み方、訳は『現代語訳 般若心経』(玄侑宗久著・ちくま新書)による>


「文藝春秋SPECIAL」2007季刊夏号