昭和三十一年生まれ。作家・臨済宗僧侶。最新刊に痴呆症や介護を軸に生きることの意味を問い直した小説『龍の棲む家』がある。
 
 大正生まれの老人です。学徒出陣で戦地に行ったものの生き残り、日本の復興と繁栄を目の当たりにして、豊かさと引き換えに失ったものを痛感しています。
 五十代で癌になりましたが、手術で事なきを得、今まで生きながらえてこれたのは僥倖(ぎょうこう)と思っています。後は最期の(とき)をどう迎えるか、自分の身の始末をどうつけるべきかだけを考えています。そう遠くないであろうそのときに向けて、どういう心の準備をすべきか、死後の世界はどうなっているのか、聞いても(せん)ないことかもしれませんが、そのことだけが、目下の関心事、悩みの種であります。

 にとっては、父親とほぼ同年齢の方のご相談ですから、誠に恐縮至極ですが、お答えさせていただきます。
 死後のことについては、いろんな説が存在することは充分ご承知のことと存じます。極楽と地獄、あるいは天国と煉獄(れんごく)など、そこへ移行する一定の主体を前提にした考え方もあれば、その主体じたいが分裂したり離散したりして、自然に還元するというような、どちらかと云えば科学に近い見方までじつにさまざまです。
 「魂」や「霊」に相当する言葉は、ほぼ世界中にありますから、誰もが死後の世界を想定したかったのは、たぶん間違いないだろうと思います。しかし正直なところ、これは臨死体験をいくつ検証しても決定的な答えが出る問題ではないだろうと思います。
 つまり、ここで人間がとれる態度は、何らかのビジョンを「信じる」だけ、ということになります。宗教がこの世に存在する理由はいろいろあるでしょうが、このことは間違いなく宗教成立の重要な要因だろうと思います。
 一つのビジョンを信じるかどうかで、認知される現象は大いに変わる、と考えるのが仏教です。あらゆる現象は、脳内のソフトに依拠した姿でしか現れないからです。河童を見るのは河童を知っているから。虹が七色に見えるのだって、均一な色彩のグラデーションを七色に見分けるその国の色彩文化に依っているのです。だとすれば、死後についても、どのようなビジョンを信じるかによって、現象そのものの現れ方も左右されるはずです。仏教はそう考えているはずなのです。ならば仏教は、どのようなビジョンを提出するのかと、誰もが思うことでしょう。
 後世の仏教では、浄土のビジョンを積極的に示す一派も現れてきます。キリスト教やイスラム教も、基本的にはそういう主旨で特定のビジョンを示したと云えるでしょう。
 しかしお釈迦さまがこの問題に対してとられた態度は、「無記」と言われます。つまり、完全な沈黙、ノーコメントです。私はこのことの意味をとても重く見ています。
 思えば我々の人生は、先の見えない道を「わからないままに」歩くようなものです。おそらく相談者の方も、戦地から無事に戻れる確信などはなかったでしょうし、五十代でガンになるという思わぬ不幸も、結局手術によって事なきを得て永らえるという僥倖も、予測していた結果ではなかったはずです。
 お釈迦さまの「無記」という態度から察すれば、このまま、「わからないままに」勇気をもって歩めと、おっしゃりたいのではないでしょうか。
 本当のことを云えば、明日のことさえ何が起こるか、我々にはわかっていません。しかし想定外の出来事にもなんとか対処していくことで、これまでの人生だって拓けてきました。学徒出陣で生き残ったことも、今の配偶者と結婚されたことも、あるいは手術が無事に成功したことも、「わからないままに」身を任せ、さまざまなご縁がうまい具合にはたらいた結果ではないでしょうか。
 「わからないままに」即座に決断し、その結果を勇気をもって受け容れつつ進んできたのがこれまでの人生ではありませんか。
 だとすれば、どうぞこのままお進みください。
 今から特定のビジョンを信じることも、むろん反対はしませんが、私はむしろこのまま進まれることをお勧めします。じつは私も、さまざまな死後のビジョンを眺めたうえで、今は「わからない」としか申し上げようがないのです。
 「わからないまま」、最後の一瞬までこの命を生ききることほど尊いことはないのではないでしょうか。
 もし本当に、死後に関する認識が必要だとするなら、最期のときにそれはきっともたらされるでしょう。
 それだけを信じて、これまで通り「わからない」今日に懸命に対処しつつ歩まれることを念じます。
 最期のときは、その結果としてなるようになります。自分の身の始末も、結局は自分ではできないのですから任せるしかありません。
 昔、死刑囚が、最期に出されたうどんのダシにこだわり、作り直してもらったという話がありますが、そのような心がけで宜しいのではないでしょうか。
 いすれ私たちも、死ぬことが確定している点では死刑囚と同じです。
 先が「わからない」からこそ最後の一瞬まで、投げやりにならず、丁寧に生き抜いていただきたいと思います。
 江戸時代の禅僧
せんがいさんも亡くなる直前に、「崖から手を離したらどこへ行くのかわからないが、今は必死に崖にしがみついている」という漢詩を残しています。ご参考まで。



「文藝春秋SPECIAL」2008季刊冬号