長年文字を書くうちに、我々はどうしても自分らしいクセを身につけてしまう。撥ね方、抜き方、止め方にも、その人独特の個性がにじむものだ。そのことじたいは自然なことだし、善くも悪くもない。むしろ活字のような文字ではつまらないし、書道を上達させようと思ったら、自分のクセに似ている手本を見つけることこそ早道でもある。
 しかし写経は違う。写経とは自分らしい文字を書き連ねるのではなく、あくまでも手本に忠実に、自分ではけっしてしないような撥ね方や抜き方もそのまま真似ることが大切なのだ。
 「わたし」ではない書き方を素直にしてみると、気持ちも普段の自分のようではなくなるから不思議である。
 まさかそれだけで、手本を書いた人の気持ちがわかるわけではない。しかし少なくとも、それによってあらためて、自分とは違う感性に触れることは確かだろう。
 もしも写経の最終的な目標が仏さまを感じることだとするなら、絶対的な手本はどこにも存在しない。何度も同じ手本で書いていると慣れてきて、次第にその手本の文字に影響を受けることがある。普段の文字がその雰囲気に染まってくることもあるだろう。しかしそのような熟練も「わたし」に繰り込まれた途端に仏さまから遠ざかる。
 「慣れ」のなかにはけっして仏さまはいないのである。
 昔、仏さまとは何ですか、と訊かれて、「薫風が南から吹いてきて、お堂のなかにさあっと涼風が吹き渡るなぁ(薫風自南来、殿閣生微涼)」と答えた禅僧がいた。
 ずいぶんとぼけた答えだが、要するにこの涼風こそ仏さまだというのである。涼風は努力すれば必ず得られるというものでもないし、慣れたら感じなくなってしまう。
 我々はたぶん、写経のたびに新鮮な手本に向き合い、「わたし」を滅して素直な気持ちで他者に向き合う。別な言葉でいえば、そこに現れた「わたし」ならぬ存在に、虚心に応じるのである。そこに涼風が吹き、瞬時に仏さまが立ち現れるのではないだろうか。え? どこに? もちろん一心に手本を写すあなたの中に、である。
 よく写経に熟練し、「般若心経」など二十分で写せるなどと豪語する方を見かけるが、それはただ馴れ親しんだぬるま湯のような自己を掻き混ぜているだけで、涼しさとは無縁である。
 ほんの短い時間ではあるが、頭の中で音読しながら「わたし」を離れて旅に出る。
そう、写経とは、涼風という仏さまに出逢う束の間の旅なのである。暗誦もして、意味の学習もしたほうがいいが、写経のときだけは何度でもウブになりたい。
「墨」188号 2007年9・10月号(芸術新聞社)