我々の経験する世界は、じつは「心」や「無意識」によって支えられ、成り立っている。それは仏教的常識というより、今や脳科学的な知見と云ってもいいだろう。脳内にインストールされているソフトに見合った体験しか、我々はしないのである。
 逆に云えば、インストールされていながらあまり活用されないソフトも無数にあるわけだが、それもいわゆる変性意識や「死の体験」のなかでは起動することになる。だから予め、その時の対処法を稽古しておこう、というのが『チベット死者の書』の基本的主張である。
 「死」が「心」の在り方に左右されるという認識は、時代と共にどんどん薄れてきたように思う。いや、それどころか現代の日本人は、痴呆や脳死など合理的に理解できない世界とのつきあい方もすべて諦め、無価値なものとして一括りにしようとしてはいないだろうか。そのような今だからこそ、『現代人のための「チベット死者の書」』は多くの人々に読まれなければならない。
 チベット密教は、古来のボン教とも習合し、無意識の心の働きに対してじつに精緻で入念な象徴を創造してきた。多くの寂静尊や憤怒尊、そしてそれらの配偶尊から成る壮麗なマンダラがそれである。またそのような顕現に、どういう態度で接するべきか、本書はじつに懇切丁寧にガイドしてくれる。
 行動(身)や言葉(口)だけでなく、どう思うか(意)によっても我々の運命はこれほど大きく変化する。そのことを、そろそろ我々は切実に認識しなくてはならないものである。
 彼らは、いわゆる死後の「バルド(中有・中陰)と」いう不安定な時期こそが、それまで無意識だった思考習慣をも変革する大きなチャンスであることを発見した。いくつもの生を連ねて発展する何物かと、そのダイナミックな変化とは、優れて「科学」的認識であることが、訳者のサーマン教授によっても解説されている。
 そうして顕れる六道やそこからの解脱を、我々日本の仏教者は、単に「心」の在り方として比喩的に受けとめ、語ることが多い。しかしそれは、「心」が経験世界を成り立たせるという仏教的常識と、じつは自己矛盾しているのである。
 むろんチベット人の死と日本人の死がまったく同じように経過するとは思わない。インストールされているソフトの多くは、我々の先祖たちの習慣的意識の集積によってできているからである。
 本書には、そうした異文化異宗教の人々への配慮も滲んでいる。現代という、無宗教と宗教対立に両極化した世界への気配りを、サーマン教授は相当している。
 しかしそのような文化的な違いを超えた「死」の本質が、本書を読んでいるとどうしても立ち上がってくる。
 中沢新一さんは「まえがき」の最後に、『チベット死者の書』がターミナル・ケアの現場で確実な力を発揮していることを紹介されているが、そのことはたぶん「死」という体験の共通点と深く関係している。普遍的な「光」体験であるばかりでなく、死とはきっとそこへ向けてのクリエイティヴな技術の体系なのだ。
 もしかすると日本人の場合、現れる光の質が少しは違うかもしれない。しかし大切なのはカラーガイダンスではなく、その現れを導く心を直視し、受け容れて思い直す技術だ。
 死に際してこれほどに思い直すことが大切なら、賢明な読者はきっと生きているうちに思い直そうと考えるはずである。少なくともクリエイタィヴな「死」の稽古が、「生」の質を大きく変えることは間違いない。
 とにかく死に臨んで聞かされるだけでも解脱に至るという言葉だ。私の説明に不満があるとしても、まずは七百年も継承されてきた言葉を読んでからにしていただきたい。
「週刊朝日」 2007年6月8日号