「良寛さん」と呼んだほうが分かりやすいだろうか、少し畏まって云うと越後の禅僧大愚良寛禅師だが、その詩偈や和歌、書簡など、あらゆる資料を集めた定本が、このほど中央公論新社から刊行された。 当代の碩学お三方による労作だが、なにより今回の定本の面白さは、良寛自身の編集意図がそのまま活かされていることだろう。 ご承知のように良寛和尚は生前からその書が愛され、自らも詩作や歌作りを好んだため、存命中に手ずから『草堂集貫華(そうどうしゅうかんげ)』やその抄本『小楷詩巻(しょうかいしかん)』、さらには『草堂詩集』三巻本を自筆でまとめている。 その作品意識はかなり強く、自作の修正や改稿の労も厭わず、「ほぼ同じだが少しだけ違う」という作品が複数の本に散見される。今回は敢えてそれも再録しているのである。どこをどんなふうに修正したかが見えるというのは、ファンには堪えられないことのような気がする。 むろん、少しだけ違う理由は改稿だけではない。たとえば出先で筆や硯を用意され、乞われるままに書くような場合、記憶とその場の気分とを綯い交ぜにして染筆することだってあったに違いない。それも同曲異工が多くなる、現実的な事情である。 たまたまこの原稿を依頼されたとき、うちのお寺の書院の床の間には良寛和尚の墨跡が掛けてあった。この定本で調べてみると、なるほどそれも少しだけ違うのである。まずは書院の墨跡のほうを写してみよう。むろん本文は漢字のみだが、ここでは書き下しで示す。 「我と筆硯(ひっけん)と何の縁か有る/一回書き了りて又一回/知らず此の事誰にか問はん/大雄調御(だいおうちょうぎょ)人天の師」 なんとも良寛さんらしい詩ではないだろうか。あちこちで乞われるままに書く言葉だが、自分がどうしてそのように書いたかはお釈迦さましかご存じない、というのだろう。大雄調御はお釈迦さまの別名である。 きっと訳知り顔で、以前書かれた詩との違いなどを言い立てる輩が当時からいたに違いない。しかし良寛さんにとっては、誰か特定の人のために、あるいはその時の特殊な状況に応じて一回きりで書くのだから、その時その場でどういう言葉になるかは自分でも説明できない。書いた本人と書かれた言葉とをガチガチに必然的な縁として捉えるのはやめてほしいというのである。 そう書かれたこの詩じたい、定本では第一巻六八〇に収まっているが、これが申し上げたように微妙に違う。まず冒頭の「我」が定本では「吾」になり、「誰」は「阿誰」、最後の「人天師」も「天人師」で収録されている。今の出版社なら必ずや校閲で赤が入るだろう。 禅籍では「人天師」のほうが多出するが、「天人師」は『法華経』に出てくる。また禅籍に親しんでいない相手なら中国語の「阿誰」よりも単に「誰」のほうが分かりやすいだろう。「吾」と「我」にしても、その時の気分によって書き分けられていたに違いない。 要するに、良寛和尚にとっては、型よりもその状況での「心中の物」こそが大事であり、表現の場とは言葉で説明できない不思議な磁場だったのである。それにしても、「阿誰」を「誰」に変えると七言絶句という型までが崩れてしまうわけだから大胆である。しかしたぶん、良寛和尚はそんなことさえ気にしなかったのだろう。 緻密な言葉を産みだしながら、しかも言葉から自由であることは、そう簡単ではない。今回の定本は、良寛和尚のそのような側面まで見せてくれる労作である。 |
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読売新聞 2007年5月8日 文化面:文芸 | ||||||||||||||