書評『釈迦』
泥のなかに咲いた蓮たち



 日本の仏教はすべて大乗仏教と括られるが、これは元々仏教サンガの周囲でその支持者であった在家の人々が教義も学びはじめ、仏塔や経典を守るだけでは飽き足りなくなって自分たちも包含した教えの拡張を願い、その結果できあがってきた「救済」色の強い仏教の総称である。梵語では「マハー・ヤーナ」と呼ばれる。つまり大きな乗り物のことだ。
 仏教文学とも呼べる「ジャータカ」もこの運動のなかで生まれ、また世尊という一つの人格から薬師仏、弥勒仏、阿弥陀仏などの諸仏、あるいは観音菩薩などの諸菩薩も生まれてくる。要するに大きな乗り物には大勢の、さまざまな悩みを抱えた人も乗り込むことになり、その対応が文学的に工夫されるのである。その意味では大乗仏教は、当初から文学的想像力を受け容れる大きな器だったと云えるだろう。
 本作『釈迦』の環境としては、そうした大乗的イメージが極力排されている。つまりこの作品は、あくまで生身の世尊が生きていた当時のインドを舞台にしているのである。
 しかしそこに登場する人間たちは、どうしようもなく大乗的である。というのは、アーナンダにしてもデーヴァダッタにしても、その抜きがたい煩悩がリアリティーをもって描かれ、釈尊自身も後悔や迷いさえ漂わせながら老いの容態が直視される。つまりここで大乗的だというのは、会ったこともない世尊を敬慕するあまり想像力を飛翔させるのではなく、敬慕するがゆえにリアルで混沌とした生身に還元したいという作者の明確な意思のことだ。
 それは「罪悪深重」で「煩悩熾烈」という親鸞の人間観さえ知ってしまった、我々大乗仏教徒にして初めて可能だったと云えるだろう。
 しかし僧侶であるだけなら、おそらくここまで因業なアーナンダも、これだけ揺らぐ世尊も描きはしないだろう。小説という器そのものがせつないほどに要求した部分も、私はあるのだと思う。
 語り手としてアーナンダが選ばれたのは実に見事、というか、それしかなかったというほどの選択である。彼ほど女性にもてた仏弟子もいないらしいが、彼がいたためにサンガの女性にまつわる律が増えたとも云われる。また永年世尊に随侍していたためその言葉を最も多く正確に暗誦しており、初期仏典は彼の暗誦をもとに作られた。しかも彼は恐らく稀代の平等主義者でフェミニスト。尼僧サンガの設立に気乗りしない世尊を再三にわたって説得したと伝えられる。いわば、このアーナンダが寂聴さんに捕まった、と言っては失礼だろうか。なんだかアーナンダが寂聴さんに向き合い、「あーなんだ、こーなんだ」と弁解し、脂汗をかきながらあれもこれも白状してしまった、という感じがするのだが……。
 十大弟子のなかで最後までお悟りが開けなかった彼の視点であればこそ、全ての人々がこれだけ人間的に描かれ、しかも微細な心の暗部の描写にも血が通ったのだと思う。いや、描写に血を通わせたのはむろん作家の力だろうけれど、つまり仏教徒として反感をもちかねないどんな描写も、覚者である阿羅漢になる以前のアーナンダの眼を通していると思えば許せてしまうということだ。
 別な言い方をすれば、寂聴さんはアーナンダと共に歩む決心をされたのだろう。半ばお悟りを諦めつつ自らの「渇愛」を嫌というほど自覚するアーナンダ。しかし一方では、遥かなお悟りをどこかで切望してもいる。そんなアーナンダに我が身を重ねるということは、泥の中にしか美しい蓮は咲かないのだという大乗的自覚の上に、じつに無際限に煩悩を描ける構造なのである。この構造を獲得した時点で寂聴さんは「うふふ」と笑ったはずである。
 しかし「うふふ」と笑ってから、おそらく二十年が経っているのだと思う。そうした構造は、たぶん練達の作家は最初から思いついただろう。この作品は、しかしそれだけで書けるものではない。恐らく構造はゆっくり育ちながら寂聴さんと共に遊行してきたのだろう。
 ここに描かれる世尊は、じつによく昔のことを記憶している。そしてその記憶に対し、後悔も苦悩もしている。世尊の妻ヤソーダラーは、出家者の妻としての切ない苛立ちと悲しみ、そして怒りさえ伴って描かれる。またウッパラヴァンナーの人生は凄絶とさえ云えるだろう。その他多くの女性たちも「なにもそこまで」と言いたいような体験が与えられ、苦悶のさまが描かれるのである。そこには、むろん経典の根拠はある程度あるにしても、失礼ながら寂聴さん御自身の人生が、幾つにも分けられて投影されている気がする。作家にとって作中の登場人物とは本来そういうものであるかもしれないが、私にはこれも一つの大乗仏教の結晶、作者の人格の分化による諸菩薩の誕生のように見えるのだ。
 そこまで泥にまみれさせることができるのは、むろん寂聴さん御自身の大乗的覚悟、自ら悩み苦しみながらも苦悩に喘ぐ人々を救済するという信念に裏付けられているのだと思う。まるで泥中に一緒に沈むように、これまで大勢の人々の悩みを聞いてこられたのだと思う。その筆によって池の底に沈んだ人々は、当然のことながらまた同じ筆によって蓮華と咲くのである。
 アーナンダの「渇愛」に到っては、三十年以上もまえのプラクリティという娘との妖しい情事、いや実際にはそこまで到らなかった不幸な経過だが、それが五十を過ぎ、彼女も死んで三十年経っているというのに、衰えた肉体を震わすほどの生々しさで迫ってくる。それはアーナンダの「誠実」である以上に、作者の「執念」と映る。つまりそれは最終的に阿羅漢として花咲くアーナンダを、一層輝かせるためにどうしても必要な泥なのである。
 実を言うと私など、サンガで戒律に則って暮らしていたら、そこまで「渇愛」に悩まされ続けることもなかろうと思う。しかし最後にアーナンダがお悟りを得たことを我がことのように喜んでしまうのは、もう完全に作者の掌の上である。
 通常の大乗仏教各派は、世尊を神格化するために様々なレトリックを考えだした。しかし寂聴さんは、アーナンダの人生を肯定し、そのお悟りを祝福するために世尊にさえ泥を塗ったのである。私はその勇気に心からの敬意を捧げたい。『釈迦』と題されてはいるがこの物語の主人公は明らかにアーナンダであり、それはこれまでになく裾野の広い、悩ましいまでの新しい大乗仏教の出現なのだ。
 物語の最後にアーナンダの口を借りて述べられる世尊の言葉こそは、八十歳にして猶若々しい寂聴さんの、心に沁みいるお悟りの表明と聞くべきだろう。


「文学界」2003年3月号