生命科学の先端を歩んでらした柳澤さんの原因不明の病苦については、以前から聞き及んでいた。
ようやく食器が洗えるようになった柳澤さんがいつかテレビに映っており、苦しさを訴えるのではなく、「食器の積み方を楽しむ」と仰っていたのが印象深かった。夫嘉一郎氏の淡々とした支援ぶりも忘れられない。私はなぜかそこに、深い信仰めいた力を感じたように思う。
その感じは前著『生きて死ぬ智慧』によってはっきりと確かめられた。それは仏教のテクニカル・タームで粉飾されない、真性の「いのちの言葉たち」であった。毎日私もよむお経に、命が吹き込まれたとさえ感じた。
唐突だったこの二つの事柄を、まっすぐに結んだのが本書である。柳澤さんの信仰心がいかに形づくられていったか、そして『般若心経』を二十年も読み込んできた苦悩の時間が、抑制された文章と素敵な和歌によって静かに示されている。
五歳のとき町内会の運動会で一等賞をとった少女は、やがて車椅子とベッドの生活に陥る。その間、希望する結婚と職場を獲得はしたものの、それを脅かす原因不明の病魔はまさに病魔と呼ぶに値する。
あれだけ訳の解らない病状に苦しめられれば、ふつうはあり合わせの宗教に入信したり、霊障などを説く新興宗教に引っ張られても無理はない。しかし柳澤さんには、宗教といえども人間の脳の中の営みだという信念があった。それはおそらく科学者としての矜持でもあっただろう。さまざまな宗教を深く学びながら原初の一元に思い至り、非二元的「こころ」を感じとり、やがて「神なき信仰」に辿り着く。
禅では荒っぽく、同じことを「釈迦に会っては釈迦を殺せ」と云うが、要するに信仰においても、あらゆる「対象」は脳の産物であり、幻想なのである。
柳澤さんの歩まれた極めて個別な道が、普遍に通じた。たぶん優れた経典も科学の法則も、そのようにしてできるのである。
|