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この本はこう読め

メッカ、チベット、エチオピア、アンデス
<神に祈る人間>の姿と心を
玄侑宗久 作家 臨済宗僧侶 と読む
『地球巡礼』 写真/文 野町和嘉



 メッカ大巡礼の全容を5年にわたって取材し、チベットという極限高地における信仰のあり様を今なお追い続けるなど、世界の”祈り”をめぐる風景を見つめてきた写真家・野町和嘉氏。国際的にも評価の高い同氏の、まさに集大成ともいうべき1冊『地球巡礼』が刊行された。
 500ページを超える大写真集は手に、ずっしりと重く、人々が祈りにこめた思いが、見る者の心まで震わせる。
 サハラ、チベット、インド、エチオピア、ナイル、アンデス……。野町氏が見つめる祈りの風景はいつも多様な自然とともにあり、グローバルスタンダードという美辞のもと平板化した社会に生きる我々が目を見張るような、バラエティに富んだ風俗、生活習慣とともにあった。
 人々が信じる宗教もまたそれぞれで、その多様さのなかにも祈るという行為の普遍性を感じさせる渾身の1冊を、芥川賞作家にして臨済宗僧侶・玄侑宗久氏と読む。 (構成/橋本紀子)

 1ページ、1ページを丁寧に繰る玄侑氏の手は、深い溜め息とともに幾度も止まった。すべてを繰り終え、本を閉じると、出るのはさらに深い溜め息である。

――― いかがでしたか。
 「……感動、しますね。いやあ……感動なんて言っていてはいけないんだろうけど、その先の言葉が継げないくらいこれはすごい、本当にすごい」

――― とりわけ人々の顔、表情に見入っていらしたようですが。
 「ここにはさまざまな国の人々が見せるさまざまな表情があるわけですが、日常の顔ならある程度、外国人観光客にも見せることがあるかもしれない。しかしこの本は……人間には”親にだって見せない顔”というのがあるでしょ? そういうものに満ちあふれているんですから。
 つまり信仰の絶頂の、人間ではない何かに向き合った瞬間の無防備な顔ですよ。でなければこういう顔にはならない。それが撮れてしまう野町さんという写真家がまず驚異ですし、この地球の、さまざまな人のさまざまな神に向き合う心を巡った彼の”巡礼”に感謝したい」

――― 本書は『サハラ 砂の地平線』に始まり、『チベット 極限高地の仏教』、『インド ヒンズー教5000年の流れ』、『エチオピア 旧約聖書の世界』、『メッカ・メディナ イスラーム宇宙の中軸』、『ナイル 文明の川、原始の川』、『グレート・リフト・バレー 人類揺籃の地』『アンデス 星と雪の巡礼祭』と、全8部で構成されます。
 そしてそれぞれ、サハラなら広大で目の眩むような砂漠、チベットなら恐るべき大地の起伏と、まずは自然の景観に読者は圧倒されます。その圧倒的な自然のなかに人々がいる。湖で飲む水を得るため氷を割る人、羊を追う人、赤ん坊に乳をやる若い母親といった日常の風景。地平線を望む砂漠で1人、メッカの方角にひれ伏すキャラバンの男、標高5000mの氷上に立つ十字架めざして、雪の降りしきる夜の闇を行くアンデス「星の巡礼」の列、アフリカのエルサレムこと聖地ラリベラで人類の始祖・アダムの墓(!)に祈りを捧げる女性など、信仰をめぐる風景……。
 
 「文明国における宗教というのはもはやアイテム化していて、すでにこういう全体性を持っていない。ここには、資本主義社会に安住する我々とは全く別の価値観があり、信仰とともにある彼らの”常識”があります。
 とはいえその信仰そのものが人生という生き方は、すべてを捨てて、捨てきらないと、できるものではない。現代は”ため込む社会”ですからね。人がひとつ所に定住すれば必ずストックを生む、生活が淀む、心まで淀む……もっともこれはかの釈尊でも頭を痛めた問題でしたが。
 彼らにしても現実には、聖地巡礼という非日常への旅が、日常を二重構造で支えている面はあると思う。しかしその二重構造さえ今や我々の多くは失ってしまったわけで、だから彼らの常識が目に眩しいのです。」

――― その常識は、日常と信仰が隔たることのない生活の美しさに裏打ちされたある種の確かさを感じさせ、とてつもないバラエティに富みながら、自然に対する畏怖において共通します。
 「例えば、この雌牛の膣に直接顔を押しつけ息を吹き込み、子宮を刺激してミルクを出させようとしているナイルの少年は次のカットではその雌牛の尿で髪を洗っている、我々はドキッとする。でもドキッとするのはそれを不潔と思う自分にドキッとするわけで、他の動物や自然に対して人間は優位にあるかのような傲慢さを、我々は彼らの常識の前にして恥じるのです。
 確固たる自己を想定し、これを揺るがしかねない環境として自然を捉える西洋型の宗教では、過酷な自然は脅威であり、征服すべき対象です。しかし東洋型の宗教では、仮にいるこの私と環境が縁あって出会い、生成された”出来事”としてすべてを捉えますから、自分というのも自然との混合物にすぎない。そこに自然をコントロールするという考え方があろうはずもなく、過酷な自然はむしろ、それに応じられる幅を広げ、揺らがない”信”が立ち上がる土壌となる。
 もっとも日本は東洋にありながら、今では、”自然を支配する陣営”に与していますからね、克服不可能な自然が彼らに神頼みをさせるのだなどと、不覚にも考えるかもしれませんが」

――― 野町氏がとらえた、祈りの風景もさまざまです。チベットの聖地ラサをめざし、実に1800kmもの距離を五体投地、つまり手も足も胸も腹もすべて投げ出し、地を這ってゆく巡礼たちの筆舌を絶する表情。メッカに赴き、または「星の巡礼」を遂げ、それぞれの神との約束を果たした男が女が、感極まって流す涙の静かで美しいこと。
 「宗教における難行、苦行とは、いわば大脳皮質がまったく役に立たないような単純で無意味な行為をあえて繰り返すことによって、左脳的認知の支配下でより意識的・合理的に生きようとする人間の理性を、ある意味では嘲笑する行為かもしれない。
 五体投地という祈りの凄まじさにもちろん私の目は釘づけになる。しかしながらそうした激しい行為ではないところにある人々の祈りをも同時に、本書に感じるんですね。特に、目です。子供に乳をやる女の目。飢餓のエチオピアで衰弱していく母親に寄り添う痩せた子供の目。いずれも祈りを宿す目の強ささろうと。その、形には表れない祈りの心をも野町さんのレンズは捉えている」

――― ところで祈るという行為を禅宗ではどう考えるのですか。
 「祈る、という言い方はあまりしませんが、日々経を上げ、坐禅を組むことも、あるいは祈りの相当するかもしれません。
 坐禅を組み、自分を空っぽにする、つまりそれは”通路”になるということで、主観も客観もない、私も自然をひっくるめた世界の通路になりきること、祈りというと、かなわない何かをかなえようとする行為のように思う人がいますが、そんなのはおねだりといってね。本来の祈りには自分の都合どころか、自分という主体さえない、通路として心身を開け放った状態が”祈る”ことだろうと私は思う。
 そして最も純粋で原初的な祈りは、祈る対象をことさら必要としない。彼らが祈る相手も、祈る内容も、たぶん生活のなかにあたりまえに全部あるんですよ。というと、いや、偶像を拝んでいるんじゃないかという人がいそうですが、そういう知的な人たちには考えもつかない、祈りの原型のようなものを、本書では何度も見せつけられた気がします」

――― そう考えながらあらためて本書をみると、人々の祈りを妨げるものは宗教の別でも厳しい自然でもなく、効率的で一様な世界をめざそうとする、日本を含めた先進を自負する国のあり方にも見えてくる。野町氏は書いています、<排他的な一神教の世界観を源流とする弱肉強食の競争世界の行く末に、はたして未来があるのだろうか>と。
 「いわば地球上の無数の価値観に巡礼を果たした本書は、多様な文化、多様な暮らし、多様な神との多様な関係を、私たちが愛するためにあるともいえる。
 そしてその目的は見事成功していて、このままドルと英語に覆われていいのか、絶対にダメだという思いをあらためて強くしましたし、今や私は被写体となった人々の目を、そこにある祈りを、多様な装束や儀式を何とか守りたいと、坊主のやり方で祈るばかりなのです。
 いや、しかし、祈る姿というのがこうも美しいとは! 人間がこんなにも美しい生き物だったなんて、知らなかったなあ」
「SAPIO」2005.12.28/2006.1.5