本来、私の仕事はあまり笑わずにすることになっている。別にそうと決めているわけでもないが、僧侶という仕事も小説を書く仕事も、自然な成り行きとして仕事中は笑わない。たまたま東海林さんの本の解説を書くという仕事が来たときも、私はひどく真面目な声で応諾したのだった。
東海林さんの漫画は昔から大好きで、本当は嬉しかったのである。しかし私は僧侶でもあるから、丁度その時、お葬式を抱えていた。抱えていたというのはつまり、亡くなったという電話があり、報告の人々もお寺を訪ねてきたが、お通夜も葬儀も済んでいないという状況である。こんなときはごく自然に笑いがなくなる。
不思議なことに東海林さんの問題のこの本を読みだすとまたお葬式ができた。まるで東海林さんがお葬式を呼び込んでいるような錯覚に捉えられたが、まあ考えすぎだろう。しかし考えすぎというのは東海林さんの真骨頂でもあるから、私自身の考えすぎる性癖をすでに呼び起こされていたのかもしれなかった。
お葬式を抱えていると笑わない、というのに、目の前には東海林さんの『明るいクヨクヨ教』がある。これはまるで拷問である。
今晩はお通夜だから読まないでおこう。そう思うのに、どうしてもウズウズと蠢(うごめ)く心がある。普段なら、こんな面白い本があるよと、いろんな人に見せびらかすかもしれない。しかしそれはこの際あまりに不謹慎な気がした。東海林さんの真骨頂の二番目は、この不謹慎さかもしれない。
『明るいクヨクヨ教』というタイトルには、このクヨクヨ考えすぎる性癖と不謹慎さが見事なまでに合体している。いや、見事なまでに合体などしていないのかもしれないのだが、なんとなくそう思わせる力が絵と共にフツフツと湧き上がってくるのである。その表紙はお通夜をまえにした僧侶にとっては、まるで禁断の新興宗教のように妙に粘っこく輝いて見えた。
禁じようとすると、欲望というのは膨れるものである。それは禁酒法時代の酒の売り上げや今の禁煙ブームの中での喫煙の、屈折して燃え上がる情熱を見ても明らかである。そこまで解っているなら、いっそ許してしまえばよかったのだ。お通夜のまえだろうと火葬場で窯から出てくるのを待っている間であろうと、「べつに東海林さんのでも誰のでも、読めばいいじゃん」と。
しかし私の良識がそれを許さなかった。故人の家族のことを思うと、「いくらなんでも東海林さだおさんを読んでる場合じゃあるまい」という思いが古式ゆかしい頭の中に鎮座していたのである。シカシテ許されなかった欲望は極限まで膨れあがり、逆に「ええい、ままよ」と、まるで涎をぬぐってステーキに飛びつくように、読みだしてしまったのである。
本を読み、声をだして笑うというのはいつ以来のことだろう。まずそう思った。ついでに、読みながら涙が止まらなかった本は、そういえば野坂昭如さんの『戦争童話集』だったなあ、なんてことも憶いだした。ついでのほうは他にも憶いだしたが、笑うほうはあまり浮かばないのだった。
そうやって築地の魚河岸のコーフンやらサッカーに対する緻密なイチャモンなどを笑いながら読み進むうちに、またしても私の中で僧侶としての良識が頭を擡げてきた。それは「そんなものを読んで笑っている場合か」という「そんなもの」呼ばわりを伴って現れた。まるでそれは、新興宗教に対する無理解な批判にも似ていた。あれっ、やっぱり『明るいクヨクヨ教』は新興宗教だったのか、ともう半分の私が思うほど、一瞬だが尖った攻撃だったのである。
そうなるともう半分の私も黙ってはいない。創価学会的古参の迫力でこう宣言したのだ。「だってそれを読むの、仕事でしょ」
そうなのだ。僧侶も私の仕事だが、こうして「アハハ」と笑いながらとはいえ、この解説を書くというのはもう一つの私の仕事なのだ。なにしろ私は「現役僧侶作家」という看板を背負ってしまったのだから。
日本人はどうしてこう、仕事という言葉に弱いのだろう。
ボールを蹴って仕事にしてる人もいるのだから、こうして笑いながら仕事ができたら最高じゃないか。すぐさまもう半分の私は強くそう訴えかけて反撃した。まあ仕事そのものは笑ってしないにしても、この笑いは仕事のために是非とも必要なのである。だいいち東海林さん自身、さつまあげを九州鹿児島まで食べに行ったり、松茸を長野まで食べに行って、それで仕事にしているじゃないか。そんな卑怯な論理さえ、その時の私には卑怯とは思えなかった。お通夜までの時間も惜しんで私は仕事をしているのだから、それが許されないはずはない……。それは古株の新興宗教の教祖様のご託宣のように重々しく響いたのである。つまり私の頭の中は、新宗教と新新宗教のせめぎ合いの様相を呈していたわけである。
結局のところ、私は「そんなもの」呼ばわりを否定した古参の新興宗教の安定感でもって『明るいクヨクヨ教』を読み続けていった。お通夜は近づく、最後の花魁ショーも近づく、という具合になっていったのである。
そんなアンビバレントな思いは、しかしギシギシと深まることはなく、次第に私は安らかな気持ちになっていった。それは、お通夜までに読めてしまいそう、と見通しがついたせいばかりではない。恐らくは、東海林さんの柔らかな人生観とでも言おうか、つまり考えすぎで不謹慎であるだけではなく、この方はじつは非常に多くの人生観を所有しており、しかもそれらを統一しているのがどうも「含羞」らしいと気づいてきたからだと思う。ガンシュウ。和語では「はにかみ」とでも言うだろうか。
要はお通夜のまえに客が来たと思えばいいのである。それが何かのセールスマンだったり、厄介な相談ごと、あるいはとても役に立つ実務的な情報提供者だったりすれば、私は「悪いけど、まもなくお通夜なので」と断るだろう。しかしその客は、はにかみながらいつしか茶の間まで上がりこみ、なんだかスイカを丸ごと食べるとか顔が巨大であることの意味とか、わけの解らない話を始めたのである。私は少し心配しながらそんな檀家さんの話に耳を傾けているという図柄だろう。むろん東海林さんは檀家さんではないのだが、ガンシュウをおびつつとても親しげに語るからそんな錯覚が芽生える。しかもその語り口がめっぽう巧みなのである。
「あれよあれよ」というのはこんな時のための形容だろう。気がつくとその客は急に真顔になり、「五十八歳の告白」なるものを始めているではないか。私はこの時ばかりは本気で心配になった。こういう告白を聞いてあげるのは僧侶の職分ではないか、と胸を張ってしまったくらいだ。お通夜のまえであろうと葬儀の直後であろうと、こういう人の相手はしなくてはならないのである。「楽しうて やがて哀しき 鵜飼いかな」なんて句も憶いだしたりした。
しかし暫くするとまたその客は、「最近フタの世界が乱れているような気がしてならない」なんて意気軒昴に話しだした。私はしかしそれでも、考えすぎとか不謹慎とかを越えた人生観のようなものを探し求めつつ熱心に聞き続けたのである。だいたい不謹慎と云ったって、たまたまお通夜のまえだから不謹慎なのであって、この客は少しも不謹慎ではないじゃないかと、擁護する気分さえ芽生えていた。
しかし外は暗くなってきた。お通夜は近い。そんなとき私は、缶ビールのフタの、フタとしての目覚めとか、善良な市民を騙すに等しい紙パック牛乳のフタの在り方というような話に、フムフムと頷きながら耳を傾けているのである。
焦るでもなく苛立つでもなく、不思議な静けさが私を満たしていたのはどうしたわけだろう。
ガンシュウを忘れさせるほどの鋭い切り口に、圧倒されていたのだろうか? それともラーメンの丼から外されたあとの、「シルのしたたる濡れそぼったボロクズのようなラップ」という表現に、自らの青春時代を重ね合わせていたのだろうか? いや、おそらくそのどちらでもないはずである。
私はたぶん、お通夜をまえにして明るいクヨクヨ話を聞くことそのものに、人生を感じていたのではないだろうか?
客は最後にひとしきり『広辞苑』に対する苦言を呈すると、こちらの事情に関係なく「じゃあ、どうも」などと言いつつ帰ってしまった。
当初私は、こんな面白い本はお通夜のまえなどの深刻な状況では読むべきではない、という主旨でこの文章を書き始めたはずだった。しかし今、客の帰った茶の間をあとにしてお通夜用の服装に着替えたりしていると、なんだか人生ってこんな感じだよなあ、と思うのだった。つまり死という深刻なときまで、我々は急須のフタを落とすような迂闊な失敗を繰り返し、ネクタイのような虚飾に身をやつし、そしてジャンプ競技のような空しい喜びを本気で喜びながら生きていくのだなあ、と、なんだかシミジミと思ったのである。『明るいクヨクヨ教』とは、なんと深い人生の書だったのであろうか。
そうして驚きつつお通夜に出かけてみて、私はもう一度驚くことになるのである。遺体を前にしながらお経も終わり、ビールなど頂き始めてみると、そこはまさに『明るいクヨクヨ教』の世界。死を悲しみながらも人々は、料理の味のことやら包装のことまで話しだすではないか。あの客の洞察の深さに、私はあらためて打たれたのである。そしてなんだかワイワイやっていると、私の脳裏にあの単行本の帯の台詞がテロップのようにゆっくりはっきり甦ってきた。「どうせクヨクヨなら、明るくクヨクヨ!」私は思わず遺族の人々にそう口走りそうになって慌てて口を押さえた。
もしかするとあの本は、本人も知らないうちにいつのまにか信者になってしまうというような、恐るべき新興宗教のテキストではないのか? 私はテーブルの上に転がったビール瓶のフタをなぜだか尊敬の眼差しで見つめつつ、そんなことを思うのだった。
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