不揃いな神々のココロ



 七福神が揃うとめでたい。宝船に乗っていたりすると尚更めでたい。なぜめでたいのか、というと、めでたいことに決めたからである。
 誰がそんなことを決めたのか、それは定かではないが、『七福神 信仰の大いなる不思議』という本を書いた久慈力氏は、どうも禅僧を疑っているようである。彼によれば、このプロジェクトのクライアントは渡来人の秦(はた)
氏であり、そこにブレインとして禅僧が噛んでいるのではないかと考えているようだ。クライアントについてはひとまず措いて、ここではブレインとされる先輩禅僧の思惑を測ってみたい。
 たしかに七福神には禅僧の匂いがする。しかもそれは京都の禅僧だろう。言葉の発信地も以前はほとんど京都であったわけだが、七福神の成立も研究者たちは京都だと見ている。それが江戸に来て、巡拝という習慣に発展するのである。
 だいたい禅僧は、頼まれてもそうでなくても、結構コピーライターみたいな仕事を昔からしている。思えば「茶柱がたつとめでたい」なんて根拠のないキャッチコピーを考え、茎茶まで売りたいお茶製造者を助けたのも禅僧だった。私だって『私だけの仏教』(講談社)で、ヴァイキング式にいいとこ取りして自分だけの仏教を作ろうなんて書いている。インド・中国・日本のなんだかあまり関係なさそうな七人を集めて一緒に祭るなんて、そんな無節操なことを考えるのは禅僧に違いない。そう思われても無理はないかもしれない。
 七福神の原形は恵比寿・大黒を起点として鎌倉時代に発生し、それが応永二十七(一四二○)年の『看門御記(かんもんぎょき)』では毘沙門と布袋を加えて四神になり、さらに江戸初期の『梅津長者物語』を題材にした絵巻では弁財天、寿老人、福禄寿が加わって一応七神が出そろう。ちなみにこの物語では左近丞富永とその妻の正直さに感心した恵比寿三郎が稲荷(弁財天)と毘沙門天の助けを借りて貧乏神を追い出す。成功を祝って三神が祝宴を開いているとそこに大黒天がやってくる。ちなみにここまでの四神は室町時代にすでに狂言に描かれているから、早くからポピュラーだったのかもしれない。そのあとにやってきたのが寿老人と福禄寿、そして最後に布袋である。この最後に加わった三人がいかにも禅僧の仕業に見えるのだろう。布袋和尚は実際唐末の禅僧だし、寿老人と福禄寿はまるであわてて加えたみたいに役割分担がだぶり、しかも禅の故郷の道教カラーそのものだ。たしかに禅僧が一枚噛んでいたのかもしれない。
 まあ順番とか七神の種類については諸説あり、民俗学者たちが真面目に研究しているから、自分で調べてほしい。私がここで書こうとしているのは、あくまでもクライアントの意図、ブレインの思惑である。
 ひとことで言えば、おそらくそれは「福」に尽きる。誰もが「福」を求めている。それが叶う方便を、たぶん先輩禅僧は講じたのだ。
 江戸初期に家康公の政治顧問だった天海僧正は、「福」を七つに分け、長寿(寿老人)、富財(大黒天)、人望(福禄寿)、正直(恵比寿)、敬愛(弁財天)、威光(毘沙門天)、大量(布袋)などと分類し、しかもそれらは全て家康公の福徳であるとヨイショしているが、こんなもの、後づけの理屈としか思えない。おそらくそれ以前に、ともかく七人と決め、いろんな凄い奴を並べてみたらこうなった、というのが真相ではないだろうか。このごちゃまぜの凄さが、じつは「福」の凄さなのだ。
 しかし所期の思惑はすぐに誤解された。すでに『梅津長者物語』にしてからが、貧乏神を追い出すことから宴が始まる。貨幣経済の発展に伴って、そうした考えに傾いていくのは仕方ないのかもしれないが、よく七福神を眺めてみていただきたい。この七人、どうにも揃わないのだ。出身地だって大黒天と毘沙門天と弁財天はインドだし、恵比寿さんが日本であるほかは中国。また毘沙門天と弁財天はユーモラスな顔じゃないし、毘沙門天だけは福耳じゃない。それに弁財天は女性だしヒゲがない。全員に共通することがこれほどない一団も珍しい。もしかすると、わざわざ不揃いなメンバーを揃えたのではないかとさえ思えるのである。しかしそれが「福」なのだとしたらどうだろう。
 貧乏神を追い出すことにも、誰かが反対するはずである。おそらく合議しても一つの結論にまとまらないのがこのメンバーだ。禅僧がこの組み合わせを考えた所期の思惑とは、おそらくこの七人で八百万を表し、あわせて反・原理主義を主張しているのではないだろうか。
 禅寺に限らず、節分に「福は内 鬼も内」と叫ぶ寺は多かったらしい。そうした原理に拘らない大らかさこそが、「福」そのものなのだと思う。だから貧乏神が門口にいるからこそ福の神は家にいる、という発想だってするのである。
 この七人も、じつは一人ずつになると結構つきあいにくい。特に弁財天などは、縁結びどころかカップルでお参りすると嫉妬して破綻してしまうと云われる。なんと狭量な、と思われるかもしれないが、彼女はインド時代から嫉妬ぶかいのである。とにかくクセの強い七人は、一人だけで円満な人格者というより、みんな揃うと七難が隠れる。七福の背後には必ず七難があるのである。
 思えば大黒天などインドにいた頃はマハーカーラと呼ばれる喧嘩に強い御仁だし、恵比寿は「夷」、つまり異国から闖入(ちんにゅう)した神だ。福禄寿など、ずいぶん総合的な名前だが、あの長すぎる頭では何をするにも邪魔になるだろう。しかしそうした難点が、七人一緒になると難点に見えなくなるのである。
 だからじつは、彼らは個々には難のある曲者であっても、総合されるとどんな個性をも受け容れる集団になるのだ。
 七福神の絵を好んで描いた白隠さんは、「讃歎随喜(さんたんずいき)
する人は、福を得ること限りなし」と謳う。つまりこうした縁起物を買ってでも、まず喜んでしまうことが大事だと云うのだ。讃歎随喜すれば福は自動的に入り込んでくる。福を得たら喜ぶのは誰でもできる。そうじゃなく、とにかくまず喜んでみるべきなのだから、そのための「よすが」として、おそらく七福神はデビューさせられたのである。

「ひととき」 2005年1月1日号 (JR東海エージェンシー)