ありがたき無功徳



 最近は床の間も少なくなってきた。どだい殆んどの家屋に、和室が一つだけというのが現代建築、床の間まで望むのは贅沢というものだろう。あんな余白が大切と思えるには、何もしない時間が大切だと思えなくてはならない。それが坐禅かもしれない。
 養老先生は「坐禅も虫とりも、GDP生みだしませんわ」と笑っていらしたが、たぶん坐禅も虫取りも床の間も、大いなる余白としてどこかで結びついているのだと思う。
 山門や本堂の大きな屋根など、一見無駄と思える空間がお寺には多い。むろん大伽藍のなかでなにもしなければ、それは文字通り伽藍堂である。その構造に見合った機能を発揮し、大きな余白に血を通わせなくてはならない。余白の充実こそ、禅のはたらきである。
 「はたらき」とは、この場合、「働」ではなく「用」という文字を使う。当然、『荘子』の「無用の用」を憶いだすだろう。そう、禅は老子や荘子の考え方の延長上にある。達磨さんが禅を初めて標榜しえた嵩山(すうさん)は、もともと老荘から派生した道教の聖地だった。
 『荘子』には、瘤だらけで差し金も当てられず、用材になりそうもない樗(おうち)や巨大な櫟(くぬぎ)の話、あるいは巨きな瓢(ひさご)の話が出てくる。それを役立たずと見るのは、用いる側の力量不足。どうしてその下で昼寝するという発想ができないのか、また伐られないからこそ長生きできることも知るべきだ、あるいは巨大な瓢は水に浮かべて舟遊びでもしたらどうかと、荘子は促す。
 現代の、GNPの発想に辟易している人々に、この発想は染みいるように届くかもしれない。しかしじつは、これもGDPや「用」の発想を出てはいないのである。つまり人々は、舟遊びや昼寝を仕事に復帰するためのリフレッシュと捉え、長寿さえ何かの功徳と思っている。
 達磨さんはこの無用の用を、たぶん潔しとしなかったのだろう。
 無用の用とは、無用と見えるものでもちゃんと何らかの意味で用(はたら)けますよ、ということ。結局は用を重視しているではないか……。

 そんなまどろっこしい理屈は捏(こ)ねず、達磨さんはただ「無功徳」と言い放った。もともとこれは梁の武帝との会見での科白だが、つまり武帝が仏教のためを思って経典編纂や造寺立塔を進めてきた自らの行為の功徳を訊くので、達磨さんはそれに対し、「そんなことしたって何の功徳もおまへん」と、きっぱり答えたというのである。
 どうにも痛快ではないか。功徳を期待するところがすでにして不浄。結果を待つのは本当の信ではない。無用の用も、こうなると生ぬるく思える。
 そう思った私は、迷うことなく『禅語遊心』の一月の達磨さんの掛け軸に、「無功徳」の賛を選んで書いた。これこそ達磨さんの真骨頂、今こそ禅は、世の中に無功徳を訴えねばなるまいと、鼻息を荒くしたのである。
 そうして月日は瞬く間に流れ、鼻息もいつしか立ち消えになって刊行の日が近づいたとき、私はハタと、そんな軸はうちの寺には無いことに気づいた。初め私は、気楽にあちこちの和尚さんに電話で問い合わせてみた。ない。本山にも、私の師匠のところにも問い合わせたが、ない。考えてみれば、これほど説明しないと解ってもらえない言葉もないだろう。檀家さんにあげるにも「無功徳」ではキツすぎる。もしかすると、頂いても説明が厄介すぎて喜ばれず、だから老師がたも書かれないのか。インターネットで捜しても見当たらず、とにかくどこにもなくて私は困り果てたのである。
 今回『禅語遊心』に収録した軸は、困り果てた私が先輩の安永祖堂老師に頼み込み、書き下ろしていただいた貴重な軸であることを申し添えておきたい。むろん老師には絶大な功徳あり、私は無功徳である。え? 老師、功徳は要らない? それは困った。

「ちくま」2005年12月号
月刊「ちくま」2005年12月号