有情の春



 仏教には、この世のすべての物を「有情」と「非情」とで分ける習慣がある。「有情」は唐の玄奘三蔵が梵語の sattva(サットバ) を訳した言葉で、それ以前は「衆生」と訳されていた。
 衆生だと、生きとし生けるもの、つまり動物だけでなく、植物も入れてしまいたくなるのだが、有情の場合はやはり動物と人間だけなのだろう。それ以外の山川草木は、非情と呼ばれる。
 山川はともかく、草木には明らかに何らかの感覚があるはずである。なぜなら植物は、受粉を手伝ってもらうために昆虫たちの好きな色や匂い発し、彼ら好みの蜜まで用意する。彼らに感覚がなければ、虫の感覚に訴えるそんな芸当ができるはずはない。
 感覚がありながら、それが非情と呼ばれるのは何故だろう。
 文字どおり考えれば、それは感覚であって感情ではないから、ということだろう。
 有情では、感覚は五感によって起こる。お釈迦さまはそれを信じるな、頼るなと、何度もおっしゃっているが、それなら我々は、五感以前の草木のような根源的感覚をもつべきなのだろうか。
 そう、私は最近そう思っている。
 感覚そのものは生存のためにどうしたって必要だが、人間の五感を通した感覚は、すぐさま感情に繋がるからややこしい。「情がからむ」ということだ。とにかく情は、理知では割り切れず、思いのほか勢いもある。漱石は「情に棹させば流される」と書いた。ところが我々は、そうと知りつつそれによって動いてしまうから厄介なのである。
 もしかすると、お釈迦さまは有情のそうした苦悩を徹見し、弟子たちには男女の交際も一切禁じ、非情を見習えと言いたかったのだろうか。
 苦行を止めたお釈迦さまは、菩提樹の巨木の下に坐った。それまでのように、自然から苦を受けるのではなく、巨きな木のゆったりした呼吸に身を任せたのである。お釈迦さまはそれから七日間、いわば非情なる自然の流れのなかに在って「お悟り」に至ったわけだが、そのことは仏教にとって、大きなことではなかっただろうか。
 厄介な情を絡ませず、今年も桜の花芽が大きくなってきた。しかし冬が長かったせいもあり、私はそれを浮き足立つような気分で眺める。すでにして、情が絡んでいる。
 今年の冬は一日で八十センチも雪の降った日があり、墓地には数本、枝の折れた桜がある。私は今日、それらの枝を伐って片付けたのだが、驚いたことに、途中で折れた枝の先の蕾は、折れてない枝の花芽よりも赤味が強くなっていた。つまり、我が身の危機を感じとった枝先は、より強く子孫を作ろうという意欲を見せたのだろう。これまでの、園芸や微々たる植物学の知識から私はそう思った。
 これってしかし、植物の情ではないのか……。私はふいに、そうも思った。
 今の時期は天気が短い周期で変わりやすい。さっきまで曇っていた空から小雨が降りだし、風も出てきた。伐ったばかりの桜の枝先の赤味が、雨に濡れてみるみる増してきたように見える。
 花の時期のこんな天気を、俳句では「養花天」と表すらしいが、伐られた花を養う雨は、あまりに無情である。「養花天」という言葉にほだされた情緒が、宙づりのまま濡れている。
 単純に有情の反対語を考えればこの無情なのだが、草木は有情も無情も超えて、カラリと非情だというのである。
 有情は成仏する。非情も成仏する、というのが非情成仏説だが、雪折れした枝の桜の花芽を見ていると、非情こそが成仏しているように見えてくる。自分で伐っておきながら、有情はせつないのだ。
 それにしても、水仙、椿、雪柳、連翹、梅、桃、桜。どうしてこうも一斉に、好きな花が咲き揃うのか。有情の苦悩は尽きない。
 春の訪れを狂おしく喜びながら、悟れない有情には一方でどうしてもせつなさが宿る。どんな色も香りも「中道に非ざる無し」と天台宗では説くが、情は「中道」とはいかないからだ。しかし本当は、そんな有情の春を、私は祝福したいのである。


中日新聞 2005年4月26日号 / 東京新聞 2005年5月12日号夕刊