新・県民性雑学 わが県を語る

 福島県人は「のんびりちゃきちゃきしんなり」!?




   よく「この町の人は」とか、括って言われると不快に感じる。「そこの町民だって市民だって県民だって、いろいろいるだろう」という思いが擡げる。そんなことで女房と喧嘩したこともある。「それはいったい誰と誰のことか」などと問い詰めたりしたのである。
 そんな私がこの文章を引き受けたことじたい、無理があったのかもしれない。中通りは「のんびり」、浜通りは「ちゃきちゃき」、会津地方は「しんなり」など、思いつきはするのだが、どうしてもそうじゃない人を憶いだしてしまうのである。
 先日ある新聞を読んでいたら福島県人について「のびやかで同時に一途」と書いてあった。その両立が可能なのかどうかは知らないが、その弁で言うなら「のんびりちゃきちゃきしんなり」と言ってしまうのも可能だろう。しんなり信念で坐っていた人がのんびり立ち上がり、やがてちゃきちゃきと行動し始めるのである。
 要は大陸的なのかもしれない。中国という国全体にはおそらくドイツ・フランス・イタリアの違いくらいの幅があるが、福島県人の幅もそのくらいあると考えるのはズルイだろうか?
 武士道と京都風の風雅、しかも豊かな農作物に支えられて信念を生きる会津人も、いざとなると明るく現実的な浜通り人の顔にもなる。また漁師さんたちの留守を守っていた浜のちゃきちゃき女房も、心がかよう仲間には中通り的無防備さを示すし、じつは会津とは違った意味での信念を生きているのである。
 東西の地勢的な幅がそうした幅を作るのかもしれないが、もっと言えばそれは個人がもともと持っている幅でもある。
 私自身、しんなり人知れず小説を書いていた20代とちゃきちゃきの修行時代、寺に戻ってからも暫くはちゃきちゃきだった。そして小説を書く夢が実現した今、気分的にはのんびり構えつつちゃきちゃき仕事している。あれ? ちっとものんびりしていない。
 いや、確かにのんびりのびのび暮らすのは難しいけれど、中通りには「お晩かたです」という挨拶がある。暗くなってからの「今晩は」や「お晩です」ではなく明るいうちの「こんにちは」でもない。その間の時の移ろいをゆったり眺めるような挨拶があるのだから、いつかそんな時間を過ごせるのだろう。なんて書くと、「お前その原稿書いてる時間、のんびりのびのびしているんじゃないの」なんて言われそうだ。


 
「月刊ビジネスデータ」(日本実業)2003年8月号