寅さんの七回忌に合わせて作られる映画のパンフレット集だというのだから、やはり僧侶も何か書かなくてはなるまい。笠智衆さんも渥美清さんもすでに亡いが、あの二人の関係はじつに面白かった。私としては僧侶仲間である御前さまを憶いだしながら、追悼の気持ちを捧げたいと思う。
なにも私が言うまでもなく、御前さまは登場人物の全てに敬愛されていたと思う。それは葛飾の人々が特に信心深かったからではなく、やはりあの上品な人柄のせいだろう。人は両極端なことをしてみないといわゆる「中道」というものを把握できないものだが、御前さまの場合はなんとなくその中道を心得ているような雰囲気があった。それが人々に安心を与えたのだろう。
しかしそれが正しく中道であるのかどうか、御前さまは実は自信がもてないでいる。寅さんのように極端を試していないからである。その辺の自信のなさ、あるいは時折寅さんに見せる羨ましそうな御前さまの眼差しが、私は好きだった。それは良寛さんが法要の席で、皆は鴨肉の料理なのに自分にだけ豆腐を用意されたときの、微かに羨ましそうな顔つきを想像させる。
自分は寅さんのように、何でも試してみようという人生を選んだ。親にも心配をかけ、自分勝手に考えた理想を求め、旅してきたようにも思う。だから私も僧侶になるまで、寅さんと同様に社会性などなかったはずである。むろん僧侶になったからといって、私には御前さまの上品さなど望むべくもない。私の歩む道は有頂天と金輪際の中道であり、純情と不純さの中道であり、また義理と不義理、人情と非人情の中道なのだろうと思う。
だから私は、寅さんに羨ましそうな眼差しを向ける御前さまのはにかみと自信のなさが、無性に好きなのである。それはまるで、童貞を懐かしむ気分にも似ている。
いったいこれが、僧侶の書く文章だろうか? お経はヘタだったけれど、御前さまのほうがよっぽど僧侶らしいのだと思う。慚愧と敬愛とを、御前さまの御前に捧げたい。
それにしても、死ぬまでに一度でいいから御前さまなんて呼ばれてみたいものだ。
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