第100回芥川賞受賞者、李良枝氏没後10周年に寄せて       

 氷雨



 その日、私はヤンジさんの故郷である富士吉田へ、ヤンジさんと一緒に行った。彼女にとっては家出して京都の旅館に住み込んだ高校時代以来の、たぶん十年ぶりくらいの帰郷だったはずである。
 帰郷するのにどれほどの理由が要るかは人それぞれだろうが、なぜ彼女があのとき帰郷したかは判(わか)らない。それは彼女が、デビュー作となる「ナビ・タリョン」を書き上げたあとだったと思う。まだ残暑の感じられる初秋のことで、故郷にはむろん親族は誰も住んでおらず、私はただ友達だという数人の人々に会い、そしてひたすら飲んだ気がする。
 もともとヤンジさんとは新宿の飲み屋で隣り合ったのが縁の始まりだった。当時三里塚闘争にからみ、たしか「三里塚」という雑誌に載せた彼女の文章を読ませていただいた。それに対して私が言った意見を、彼女は重く受け取ってくれたのかもしれない。その後彼女は小説を書き始めたが、当初はたぶん、私が最初の読者だった。やがて辻さんという名編集者が現れたが、それでも私のほうが先に読んだ作品はあったはずである。彼女が初めて芥川賞候補になったときも、私は辻さんと共に新宿の飲み屋で結果待ちの人垣に加わっていた。
 私も当時は悶々(もんもん)と小説を書いていた。しかしヤンジさんの書くものには、自分には考えられないほど、構造を破綻(はたん)させながら蠢(うごめ)く豊かすぎる題材があふれていた。生活そのものの切実さと言ってもいい。誰でも書くことで自分を救済する、という側面はあるかもしれないが、彼女ほどそのことを感じさせる人はいなかった。
 書くべき具体がないままに冷静に構造を考える私は、しかしもしかしたら彼女にとって、内側からの熱で曇ったフロントグラスを晴らすクーラー程度の役にはたったのかもしれない。細かい経緯は忘れたが、とにかく第一作を書き上げた彼女は帰郷を決心し、なぜか私に同道を頼んだのだ。私に期待していたのは、「帰郷ではなくこの人の富士見の旅だ」という言訳ばかりじゃなく、何かを見てほしかったのだと思う。そして解釈せよと、言っていたのだと今になると思う。
 そこで見たのは、久方の同級生たちに見せた懐旧の情は勿論(もちろん)だが、やがてそれを突き破った狂騒、そして韓国の国旗の太極図のような、極端な陰陽としてうねる感情の波だったように思う。
 その晩、我々は焼鳥屋からスナック、そして最後は同級生の新居に遊びにいき、彼女はそこでカラオケを歌った。その前の店でもそうだったのだが、彼女が歌ったのは「氷雨」だった。
 「飲ませてください もう少し 今夜は帰らない 帰りたくない」確かにその歌は、そのころ流行ってもいた。しかしそれ以上に、なにかが彼女の気持ちに迫るのだろう、歌いながら彼女は涙ぐんでくるのだった。もしかしたら懐旧から狂騒へ移るキッカケはあの歌だったのかもしれない。その後彼女の酔いはどんどん進み、やがて誰かの歌にあわせてガラスのテーブルに乗った彼女はそこでステップを踏み、ガラスを割った。
 詳しいことは私だって覚えちゃいない。気がつくと友人の寿司屋さんの二階で目覚め、私は小さくなって反省している彼女と美味(おい)しい豆ご飯の朝食をよばれた。前夜の詫(わ)びと豆ご飯の美味しさを交互に口にする彼女を見ながら、私は「氷雨」を歌った相手について考えた。私ではないことは明らかだが、それはもしかしたら故郷そのものだったのではないか? 故郷での複雑な愛憎の記憶との、あれは和解を申し出た歌だったのではないかと思った。 
 十年前まさかの報せに驚いた私は、口に真珠をくわえて韓国式に花嫁衣裳で送られるヤンジさんを見つめ、やはり「帰りたくない」と歌う声を聞いたような気がした。

   

山梨日日新聞 2002年 5月18日