翻訳された神さまのこと



 ある宗教が外国に輸出される場合、どうしても翻訳作業が伴う。ということは全く新しい概念が入ってきたとしても、それまで使われてきた言葉に翻訳される限りどうしても変質せざるを得ないということだ。もともとその言葉にあった意味が、付着してしまうだろう。 
 たとえば仏教がインドから中国に入ったとき、ブッダという言葉は「大覚」と訳されたが、これは『荘子』からの引用。また、ボーディという言葉は「道」と訳されるが、これはもちろん『老子』を下敷きにしている。仏教の翻訳語は主に『老子』『荘子』『易経』『中庸』『淮南子』の語彙で訳されたというが、これはつまり、そうした思想が翻訳の過程で「中国仏教」に流れ込んだということだ。
 しかし場合によっては、時と共に以前の意味が全く失われてしまうということも起こる。たとえば明治初期に移入された英語の翻訳に使われた「自由」。これはもともと仏教語だが、Freedomの翻訳語に使われたため、本来の「自らに由る」、つまり起こること全ては自分に原因があるという考え方とは懸け離れた意味になってしまった。あるいは「世界」という仏教語も、本来は「世」が前世・現世・来世という時間的拡がり、界は欲界・色界・無色界という空間的拡がりを意味する豊かな言葉だったのに、Worldいう英語の訳語になってしまったため殆んど空間的拡がりしか意味しなくなってしまう。そんな具合である。
 キリスト教が日本に入ってきたときには、じつにその点がうまく処理された。当初唯一なる神は「天主さま」と訳されたが、これは中国の天のイメージはどうしても残るものの、日本人には新鮮な語感だった。むろんラテン語のまま「デウスさま」という呼び方も使われたが、次第に「天主さま」が優勢になっていく。
 唯一絶対のお方であるわけだから、ほかに用例のない「天主さま」や「デウスさま」がどうして使い続けられなかったのか、私は理解に苦しむ。とうとう一九五九年には、正式に教区長会議を経て「神」の語に置き換えられられることになった。
 神といえば日本では、八百万の神々という複数形の存在である。むろん教区長会議では、そんなことは承知の上で「神」という呼び名に決定したはずである。その主旨はなんだったのか。
 たとえそんなつもりはなかったと言われても、そこにはどうしても日本の神々と誤解されてもいい、という覚悟が読みとれる。人々がなんとなく敬っている神は、導入のイメージとして悪くない、という心づもりもあったように思えるのである。
 今となれば、私はそれは優れた選択だったと思う。天主さまが神様になるということは、より平和的、融和的な存在に変質することではなかっただろうか。
 たしかに日本の神々にも、スサノオのようないわゆる荒ぶる神もいることはいる。しかしむしろ我々は、その姉である天照皇大神に学ぶべきであろう。彼女はスサノオの悪事、たとえば社に糞尿を撒き散らしたり田圃を荒らしたりすることにひたすら耐える。彼女が業を煮やして天の岩戸に隠れてしまうのは、誤ってとはいえ、スサノオが機織り女を殺してしまった時だった。殺人は、なんとしても許せなかったのである。
 あるいは大國主命も誠に平和主義者だった。義父であるスサノオに対しても、睡眠中の彼の長い髪をあちこちの柱に縛りつけ、目覚めても追ってこれないようにすることで、戦わずして勝つ。むろん神様といえばイザナギ・イザナミだろうと言う人もいるかもしれないが、それでも彼らだって戦闘性は見出しにくい。
 要するに、日本に於けるキリスト教の神さまは、そうした日本の神々のイメージを否応なく背負うことになったのである。
 だから日本人には正月には神社に初詣して葬儀はお寺、クリスマスケーキは食べるし結婚式は教会で、という人々が多い。つまりそれは、一神教的に考えれば無節操としか見えないのかもしれないが、要するにキリスト教の神様も八百万の神々の一人として受け容れられているということなのだと思う。
 それは単に言葉の問題ではないか、と反論する方もあろうかと思う。しかし言葉こそ、重要なのである。
 仏教も神道もキリスト教も、同じ宗教であると云う。
 しかし「宗教」がそうした意味で使われるようになったのは、明治以後。あくまでもReligionの翻訳語に「宗教」が採用されてからなのである。そしてReligionとは、元々一神教を意味し、さらに狭い意味ではキリスト教を意味するから、正確には日本の仏教や神道はReligionではない。つまりその意味での宗教ではないのだ。
 Religionではない宗教は日本には古くから存在している。そこでは幾つもの価値が並び立ち、正統や異端は定められない。大勢の神々や仏たちが並列で花を咲き競っている。いや、競っているというのは言葉のアヤだ。比較も競争もせず、咲きにぎわっているのである。
 エラそうに言うけれど、我々の仏教だってじつに多くの混淆を経験してきた。インド仏教とはもちろんのこと、中国仏教とも違った様子を具えて初めて帰化して生き延びたのだ。神道に学び、儒教に染まり、それよりまえに道教にも混淆した。そして和語としての「ほとけ」を産みだしたとき、日本での根が深く張りはじめたのではないだろうか。
 「ほとけ」は「ほどける」に由来するが、ブッダとは全く意味が異なる。しかし日本的土壌では、ほどけて自然に溶け込む仏が歓迎されると、先人たちは認識したのだと思う。
 このところキリスト教圏とイスラム教圏に不穏な空気が垂れ込めているが、カトリックの人々だって人一倍憂えていることだろうと思う。だからこそ、少なくとも日本にいらっしゃるカトリックの方々は、あらためて「神様」という日本語を噛みしめてほしいと思う。
 そこでには十字軍のイメージも魔女狩りの歴史も関係ない。「和魂(にぎみたま)」としてこそ、日本では咲き栄えてほしいのである。神様の違いでななく、信仰をもつもの同士という一点で、我々はとても近しい存在なのだと、私は勝手に思っている。
 大変失礼なもの言いもあったのではないかと存じますが、何卒あなた様の神の御名において、お許しください。


「あけぼの」2004年1月号