片手の音 …… 『禅的生活』余滴



 なぜか「禅問答のようだ」という言い方は、ワケがワカランという意味で使われる。落語の「コンニャク問答」を聞くまでもない。
 たしかに、禅の「公案(こうあん)」と呼ばれる禅問答の問題は、かわったものが多い。曰く「富士山を荒縄で縛ってもってきなさい」。曰く「千尋の底の一つの石を、我が身を濡らさずにもってきなさい」。
 ここで答えの一つも書こうものなら、私はこの世界では生きていけなくなる。だから答えは書けないが、私がどんなふうに分からず屋だったかは書いてもいいだろう。
 たとえば富士山の公案なら、初めは「そんな荒縄は、捜してみましたがどこにもありませんでした」なんて答えるが、むろんダメだから、今度は老師の前で両足をだし、縄をなうスタイルになって太そうな縄を作るポーズをとってみた。「ご苦労さん」。老師は薄笑いを浮かべて仰り、鈴を鳴らした。ダメだと鈴を鳴らして次の人の入室を促すのである。
 どうも私は、世間の皆さんと同じように、テレビで視た一休さんのトンチを禅問答だと勘違いしていたフシがある。「衝立に描かれた虎を縛れ」と言われ、「じゃあ縛りますからそこから追い出してください」と答えたり、「この橋渡るべからず」という看板を見て、真ん中を歩くなどというアレである。あれは単なるヒネクレ者であり、屁理屈というのものだ。わざわざ橋の危なさを親切に忠告してくれたのに無視する愚か者は、壊れかけた橋もろとも川に落ちて然るべきなのである。禅問答とはそんなもんじゃない。
 じゃあどんなの? とは訊かないでほしい。私、禅僧やってられなくなるって言ったでしょ。しかしこのままでは皆さんの気も済まないだろう。寝た子を起こして「早く寝なさい」と叱るようなものだ。
 お詫びといってはナンだが、白隠禅師が考えたと云われる公案をもう少し解りやすく紹介してみたい。「隻手(せきしゅ)の音声(おんじょう)」というのだが、俗に「片手の音を聞いてこい」とも云われる。欧米でもワンハンド・クラッピングと呼ばれ、夙に有名である。
 普通、音は二つ以上のモノがぶつかることで、鳴る。右手と左手、鐘と撞木、上の歯と下の歯、みなそうである。鐘と撞木と、どっちが鳴っているんだというバカバカしい問答があるが、むろん古来歌われるように「鐘と撞木の合いが鳴る」、つまり出逢いという関係性が音を発しているのである。
 なんだか余計に難しくなってきただろうか。うだうだ言ってないで早く「片手の音」を聞かせろ、また寝たいんだから、と寝ていた子は言うだろう。
 それならもこんな話はどうだろう。人の息と笛の関係性で出る音を荘子は「人籟(じんらい)」と呼び、また風と地上の木々や無数の穴の関係によって出る音を「地籟(ちらい)」と呼んだ。そしてさまざまなモノがそうして関係性のなかで独特の音を出すという在り方、あるいは人間がそれぞれ個性を発揮しながら此の世に生きているという根本原理を、「天籟(てんらい)」と呼んだのである。「片手の音」とは、いわばこの「天籟」つまり天の響きと云ってもいいだろうと思う。
 そうは言われてもなかなか理解しにくいかもしれない。だから雲水の間にも、一時バカな噂が広まった。「なんか、老師のほっぺたを思いっきりひっぱたくと、OKらしいぜ」
 しかし私の老師は天使の大胆さと悪魔の細心さを兼ね具えた方だった。いつの頃からか「隻手の音声」を出すときは、照れながらこう付け加えるようになった。「あのな、片手の音っていうとワシの横っ面をひっぱたこうとする奴がおるが、そ、それは、ナシだからな」。
 じゃあいったい「片手の音」を聞くって、どうすればいいのか。
 それは『禅的生活』を読んで、寝た子が目覚めれば分かるはずだ。老婆心ながら、眠気を醒ます方法も書いておいた。
 あれ、もしかして、また寝ちゃった? ごめんなさいね、起こして。


「ちくま」 2004年1月号