ともしび面

危険物としての心     




 日本は世界一の自殺国であると云う。交通事故による死者を超してから何年になるのか、とにかく年間三万人以上が自殺するというのだから、一日平均八十人以上である。これはあらためて驚くべきことだと思う。
 やはり檀家さんでも時には自殺者がいる。そういう葬儀の場合、お通夜の席などで話すのは基本的に「本人が病気であったことを理解してほしい」という内容になる。つまり心を病んでいたからこそこうした手段に出たのであり、健康な心で自殺することはあり得ない、という前提に立つのである。
 心は本当に危険である。その動き次第では自殺も忌避しなくなるし、むろんその刃が他人に向けられて殺人を犯すこともある。自殺も殺人も病気が起こすのだと思ってはいるが、しかし仏教の場合、「心神耗弱」だったからといって「その人ではないから責任もない」という判断はしない。飽くまでも責任は危険な心の管理を怠った本人にあるのである。
 殺人の責任というと解りやすいが、自殺の責任といってもピンとこないかもしれない。しかし自殺は、時には相手に反撃を許さない猛烈な攻撃としての側面も持つ。
 先日中国人の奥さんとその間に子供も残し、四十代の日本人男性が自殺した。儒教の習慣から、奥さんは通夜・葬儀の間じゅう泣き続けた。しかし私がその控え室を訪ねると、三十代の彼女は思わず周りを窺うような勢いで自殺した夫を詰(なじ)ったのである。自殺という手段の卑劣さを訴え、どうしてそういう卑怯なことが許されるのかと、私に問い詰めるのだった。
 それは私には新鮮な反応だった。死んでしまった人は貶(けな)さないという日本の武士道的美学に対し、中国では怒り心頭に発すると墓をあばくことも辞さない。そうした違いはむろんあるだろう。しかし私は彼女の反応に中国的異質さを感じるよりも、むしろ本来こうして怒るべき事態なのではないかと思ってしまった。
 日本では昔から自殺が容認されるような文化があった。入水や餓死で怨霊になって祟ったり、あるいは武士の切腹、叶わぬ恋の末路の心中などだが、いずれにも云えることは、負けたと思われた勝負に最終的に勝つための「死」ではないだろうか? それぞれ怨霊信仰、万葉的アニミズム、浄土思想などがその「死」をバックアップしているように思える。そして彼ら自身にとってその「死」が敗北と認識されていない以上、それは最後の攻撃ではないか? 永久に反撃しようのない夫の攻撃を卑怯だと言う彼女を前に、私はそんなことを考えていた。
 追いつめられた心がどんな鋳型を発見するのかによって、行動は大きく分岐するのだと思う。しかしそれ以前に、心を危険物として扱う態度がなさすぎるのではないかとも思う。我々の心は六道あるいは十界を旅する。ということは「地獄」にもなるし「修羅」にもなるわけだから、自殺も殺人も初めから可能性のある話なのである。
 そんなことを踏まえて、この危険物としての心の扱い方が問題になってくる。「禅」とはたぶん、心をまともには相手にせず、体から心をコントロールするための優れた方法論なのだと思う。

「中日新聞」2002年10月6日