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今年の七月、富山市での講演の翌日、かねて憧れていた立山にT氏の案内で出かけた。彼の車で行けるところまで行き、そこから称名の滝まで、ほんの二、三キロ歩いただけだから、とても山に登ったとは云えない。
しかし多少とも自分の足で歩き、飛び散る霧のような飛沫の中に見上げた称名の滝は、いかにも幽邃(ゆうすい)であった。落差三百五十メートルという瀑布は、佇んでいるあいだにも最上部が靄(もや)で見え隠れする。その滝の上流に、古人が浄土を想定したのも頷ける気がした。しかも滝は、満水期には二筋になり、そのときの落差は五百メートルにも及ぶという。滝壺付近の青い霧を眺めていると、たしかに穢れようのない領域を前にしている気分になるのだった。
立山信仰は万葉の昔からあった。大伴家持は夏にも雪を置く立山に神を感じた歌を残している。その後、滝の上は帝釈天の浄土になり、それから平安時代になって阿弥陀の浄土になる。自然を眺める物語がまるで地層のように重なり、今に連なっている。
称名の滝というからには、むろん「南無阿弥陀仏」という称名が聞こえるようだというのだろう。私は脳裡にまっすぐ落ちてくる水の音にあらためて耳を澄ませた。しかしそれは、信心がないと称名には聞こえそうになかった。
山菜定食の昼食後、T氏が案内してくれたのは立山博物館だった。そこには立山信仰を跡づける品々が、それこそ歴史の地層を見せるように展示されている。なんとも心憎い案内だと思った。おそらく滝を見てきたあとだからこそ、浄土や地獄への想像力が逞しくなっていたのだろう。実際、眺める人の心次第で、滝は怖ろしくも清らかにも見えるのではないか。
折から博物館では、企画展「立山曼荼羅 物語(かたり)の空間」の展示が完成し、二日後の開館を待つ状況だった。私は館長さんに全体的な話を伺い、しかも学芸員の福江充氏(法蔵館『立山曼荼羅』の著者)に親しく解説していただく機会を得た。
彼によれば、第二次大戦まえまでは各地に立山信仰の講があり、立山に出向いてくるだけでなく、仏教での僧侶に当たる「御師(おし)」たちが各地に出向き、曼荼羅図の絵解きなども行なっていたという。また福江氏の著書によれば、少なくとも戦前までは、この地域の男の子たちは、十六歳で立山に登れなければ一人前でないとも云われたという。立山は、人間の成長の通過儀礼をも提供していたのである。
しかしどうも、第二次世界大戦の後の断層はことのほか大きいようだ。近代以降、衰えながらも細々と続いてきた立山信仰の灯火は、アメリカから吹く騒がしい風に吹き消されてしまったかのようだ。なにより、曼荼羅図に執拗に描かれる地獄・餓鬼・畜生・修羅などの世界が、我が身に切迫してこない。明るく文化的とおぼしき環境に、馴れてしまったせいではないか。私は福江氏の説明を聞きながら、絵柄の素晴らしさは感じながらも、そんなことを思うのだった。
しかし私は、すぐにそうではない現実をイラクに想った。今も修羅の巷や焦熱地獄、そして阿鼻地獄が、同じ人間世界に存在するのだ。
博物館を出た私たちは、今度はそうした戦後の風の中に結晶した「まんだら遊苑」という壮大なテーマパークを歩いた。むろんテーマは立山信仰そのもの。まるで大きな断層によって感覚の麻痺した我々の中から、地獄や浄土を呼び覚ますように、そこにはさまざまな現代アートが響き合いながら配置されている。おそらくこれを設計した六角鬼丈(ろっかくきじょう)氏は、良質な戦後文化の力を総動員して、戦後にできた大きな断層を埋めようとしたのではなかったか。
そうして案内のままに経巡ったあとで、私はなぜか、もう一度立山に戻りたい、と思った。まんだら遊苑も、立山曼荼羅図も見たうえで、やはり山そのものを、あの称名の滝の上まで登ってみたいと思った。
山を登るということは、時代を遡ることでもあるが、同時に日常の自分から原質の自分への旅でもあるだろう。山の力は、おそらく博物館や遊苑よりもリアルな地獄や浄土を見せてくれるに違いない。
もしかすると、T氏こと高谷光(たかたにあきら)氏もそんなふうに感じたのだろうか。彼は六角氏のスタッフとして遊苑の建設に関わり、その後も管理のため東京から通っているのだが、ちょくちょく立山に登るらしい。
私たちを案内してくれた翌日にも一人で立山に登り、山頂付近の雪景色の写真をメイルで送ってくれた。しかしそれは、彼の登山であって私の登山ではない。現代はそうした二次的な情報、言い換えれば他人の情報に溢れた社会でもある。ありがたいことではあるが、しかしそこには地獄も浄土も存在しない。イラクに他人事の地獄を見ても、それは立山が見せようとしている地獄ではないのだと思う。
地獄や浄土は、おそらく立山が私だけに囁く、私自身の在り方なのである。
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