「黙識」あるいは言語道断の言語     




 鈴木大拙と呼び捨てにできるわけもないし、かといって大拙さんというほど通暁しているわけでもない。鈴木さんでは別人のようだから、ここでは大拙博士と呼ぶことにするが、そんなことで悩むほどに、大拙博士は遠くて近い存在である。  
 昭和四十一年に逝去されているから、むろんお会いしたことはない。その年、私は祖父である先住職を亡くし、その葬儀に鎌倉円覚寺から朝比奈宗源老師を導師としてお迎えした。そしてそのあとで、私の得度式もしていただいたのである。いわば大拙博士が親しまれた鎌倉禅との出逢いだった。因みに朝比奈老師は私の父親の師匠であり、また祖父とは修行道場の同参であった。
 寺の書院には昔から、「黙識」という釈宗演老師の文字が扁額になって掛かっていた。今もそうだ。釈宗演老師が大拙博士の師匠だと知ったのは随分あとのことだが、今になって思うとこの「黙識」という文字を眺めながら、私は成長してきたのだと思う。
 初めはむろん読めなかった。読めるようになっても意味がとれない時間が長かった。というより、今でも自信はもてないでいる、というのが本音である。
 私にとって大拙博士は、寺という場所に反抗していた青春時代、まるで一本の杭のように、流される私のまえに現れた方だった。直接的に私に手を掴み止めてくれたのは星清先生という哲学の先生だが、その背後に久松真一先生がおられ、大拙博士の著作があったのである。
 寺に反抗した理由は多岐にわたるが、実際もってしまった疑問に、ちゃんとした言葉で答えてもらえないことが更なる反抗を促した。禅には「不立文字」とか「教外別伝」などの言い回しがあるが、「そんなことは体験してみなきゃ分からない」という言い方が安易になされるとき、私の反抗心は最も燃え上がった。
 大拙博士は、その言語道断の世界を言語に表す努力を、死ぬまで続けた方なのだと思う。その情熱の源に禅への深い理解があったのは勿論だが、それを世界に広めるべきなのだという深い自信が、著作からもひしひしと感じられた。むろん当時の私が『日本的霊性』『東洋的な見方』『仏教の大意』などをどの程度理解できたかは心許ないが、いずれそこには究極の、言葉にならない世界についてのギリギリの表現が模索されていた。釈宗演老師という、日本から初めて世界へ飛びだした破格の老師の思いを、さらに広く深く押し進めたということだろう。
 大拙博士は、よく著作のなかでも西欧的二元論や力の論理を批判され、それを覆うものとして東洋の叡智たる「さとり」を示された。臨済の「無位の真人」や達磨の「安心」、あるいは浄土門の「絶対他力の信」や老子の「無為にして為さざるなき道」に託して説かれることも多かったが、いずれにしても今日ほどその思想が渇望されている時代はないのではないだろうか?
 マックス・ウェーバーの言うカルウァン派と資本主義の親和性のせいか、神の如き資本が今や力の論理で世界を覆い尽くそうとしている。しかもそれは二元論としての正義を携えている。そのことの非合理が、昨年九月の世界貿易センタービル破壊として噴出したのだと思う。
 西欧世界に禅を説いた大拙博士は、彼らにこう問いかけたという。「神が光あれと言ったら、光があらわれて夜と昼ができたというが、『だれ』がそれを見ていたのだ?」「キリストが、アブラハムの生まれぬ前からわたくしは存在するという、その『わたくし』を徹見せよ」
 秋月龍a老師によれば、右は大拙博士の考えだされたキリスト教社会の人々向けの公案だという。最初のものはそれこそイスラム社会にとっても有効だろう。アッラーは最初の光だけではなく、毎日の光と闇の訪れも管理していると考えられているのだから。それを見ているのは誰なのか、と、博士は大まじめに問いかけるのだ。
 世界を大肯定したいのは、人間の本能であると、大拙博士は言う。だからこそ、二元論の善や正義を肯定することはあまりにも危険だと。二つに分かれるまえの「一」、あるいは我々の感覚器をひっきりなしに通過している何か。見聞そのものではなく見聞の主人公である。「無位の真人」をこそ肯定せよと訴えるのだ。
 本来「もの」の介在しない直感的世界を、言葉という「もの」で丹念に表現してくださる。「宇宙的無意識」というのも、そうしてあみだされた言葉だった。それは唯識の云うアラヤシキとも少し違う。殆んどブッダ・ネイチャー(仏性)にちかい、無限な可能性であり、しかも善なる混沌のように思えた。
 『大乗起信論』を初めて英訳したのは大拙博士だが、そこで説かれる本覚と始覚と無明との関係は、そのことをよりはっきりさせてくれる。人間は本来、草木国土と同様、円満具足で成仏していると云う。それが分別によって無明に陥り、そこから本覚に回帰するのが始覚すなわち「さとり」だと云うのである。
 十二因縁の初めの「無明」を、分別によって生じたと考えるのは実に明るい思考だといえる。だから欧米人に向かい、大拙先生は言う。「人間は、一度はエデンを出なければならない」でないからである、というように、善悪の区別のない世界から善悪に振り回される世界にくる。しかしそのままではいけない。復活しないイエスには何の存在価値もないように、もう一度エデンに戻るのだ。それを真の「創造」と呼び、また「大方便」と呼ぶのだ、と。
 確かにそれは、『大乗起信論』そのものの持つ肯定的世界観でもある。しかし大拙博士が三十歳という早い時期にその翻訳をされたことの意味は、意外に大きかったように思える。もしかすると禅そのものもそうかもしれないが、人間を見つめる眼の奥底には、釈尊よりもかなり明るい世界があるように思える。そしてそういう人の話こそ、現代のグローバルズムの担い手たちに聞かせたいと思う。大拙博士は「人間っていうのは、どうしても偏ってしまう生き物なんですよ。それが人間の人間らしさだ」と、物わかりよく語りだすだろう。「しかし全くそうじゃないもの、絶対的に矛盾する世界と、頓に自己同一化する体験が必要だな」などと、西田幾多郎の言葉なんかも使うかもしれない。
 私がここで碌でもない阿行を加えるまでもなく、大拙博士は九十五歳まで話しつづけた。書きつづけたのである。「極楽は、ちょっと行って戻ってくるところだ」という趙州の言葉を気に入っていたらしいが、こよなく娑婆を愛おしみつづけたのだと思う。そして晩年、博士は呟く。
 「四十九年、一字不説」
 それはむろん釈尊の言葉として伝わるものだが、言葉にできない世界を言葉にしつづけた人は、自らの慚愧を呟いたのかもしれない。多くの外国人が書いた禅に関する本をみて、「罪つくりをした」とも仰ったらしい。
 書院に行って、私はまた「黙識」という扁額を見上げてみる。むろんそれを書いた釈宗演老師もスリランカに学び、アメリカで説法されたりした方だから、「黙って識(し)っている」ことを推奨しているとは思えない。老師の志を受けた大拙博士には、明らかに「日本的霊性」を言葉で世界に伝えようという強い使命感があった。だから一瞬、その師匠の「黙識」という言葉に、私は戸惑った。万言を費やして猶伝えがたいもどかしさと、覚者どうしの沈黙のうちの疎通を、逆に想ったのである。
 私はしかし、なぜかそのあとで大拙博士の神道に対する冷淡さを思い返していた。「言上(ことあ)げ」しない神道に対し、博士はしばしば冷淡というより酷薄な言葉を投げつけた。曰く「情性的」、曰く「直線的・時間的な宇宙生成論」。それは言葉で言い返せない相手への、言葉によるイジメとも思える攻撃だった。「日本的霊性」という言葉を専ら禅の「さとり」体験から説く博士は、我々禅宗の僧侶にとっては正義の味方のような方である。だからこそ私の青春の闇にも、一条の光を射してくれたのだろう。しかし僧侶になってからの私は、博士の口調に少し馴染めないものを感じていたのも確かだ。その感覚が、ふいに神道観に対する違和感として甦ったのだった。
 私は好きな話を憶いだそうとした。
 それは「飛行機と渡り鳥」と題して秋月老師が紹介しているのだが、ある場所に至る在り方として飛行機と渡り鳥があるように、ギリシャ以来の科学とキリスト教神秘主義や禅があるだろうとスイス人の老教授が言う。それは合理主義と宗教的直覚の対比でもあった。それに対し、秋月老師は「ますます完全な飛行機を作るためにこそ、渡り鳥の智慧や禅が必要でしょう」と答える。しかし大拙博士の答えは全く違っていた。「わしは飛行機も使わず、渡り鳥のようにでもなく、ここにこうして坐っておって、寸歩を移さずして世界を飛んでおる」。
 再び、「黙識」を見上げると、それはさっきと違った意味を染みださせた。「黙識」とは、「宇宙的無意識」そのものではないか? あるいは「日本的霊性」。
 失礼を承知で申し上げれば、言葉の味として、私は「黙識」のほうが好きだ。「黙識」という言葉にこそ「日本的霊性」や「宇宙的無意識」を感じると云ってもいい。そして博士には、それらの言葉を使うなら、是非とも神道や密教をも包み込んでいただきたかったという思いがまた擡げる。
 しかしそれは贅沢というものだろう。是非を論ずれば遠のくものがある。それは「黙識」のように訳の分からない言語でなく、明解な言葉で言語道断の世界を表現しなければならなかった人の宿命だったのだと思う。だから私は、むしろ「飛行機と渡り鳥」のような、ムチャクチャな話のほうが好きなのである。


『鈴木大拙全集』第三十三巻 岩波書店月報