芸能のことにどうして坊主が口を挿むのかとご不審の向きもあるかもしれない。しかし元を辿れば同じ河原乞食や聖(ひじり)どうし、殊(こと)に禅宗は芸能をバックアップした歴史もある。何より村尚也さんは私の寺の本堂での催しで踊ってくれたばかりか、文楽を呼んでくれたりした恩人である。村さんに免じて、この駄文も読んでいただければ幸いである。
この講座でも紹介されるとおり日本には様々な芸能があるわけだが、全ての芸能に私はある種の宗教性を感じている。だから本堂でやろうということにもなるのだが、その宗教性とは、基本的には「繰り返し」によって醸しだされるものだと思う。もともと英語で宗教を意味する「レリジョン」には、この「繰り返し」という意味がはいっている。
日本式に言えばそれは「稽古」と呼ばれるが、繰り返し稽古するという行為の結果、なにか宗教的な心境を獲得するというのではなく、稽古という行為自体にこそ宗教性はある。禅ではそれを因果一如(いんがいちにょ)とか修証一等(しゅしょういっとう)などと云うが、つまりは菩提心(ぼだいしん)という「初心」を発した途端に仏の真っ只中に入るわけで、要はその初心をどれだけ繰り返せるか、ということになるのだろう。
ところで稽古するのは通常「わざ」と云われることだが、世阿弥(ぜあみ)はそれ以上のことまで要求している。彼の能楽論である『花鏡(はなかがみ)』によれば、「なすわざ」ばかりでなく「せぬひま」こそ面白いと云う。「舞を舞いやむひま、音曲を謡ひやむ所、そのほか、言葉・物まね、あらゆる品々のひまひまに、心を捨てずして、用心を持つ内心」こそが大事だし面白いのだと言うのである。
考えてみれば人生とは「なすわざ」と「せぬひま」との連なりである。為(な)すわざばかり磨いても、それとは全く別な心根が「せぬひま」に覗いたのでは興ざめてしまう。それを世阿弥は「あやつりの糸の見えんがごとし」と表現する。そこでは「為すわざ」のみで善しとする職人では飽きたらず、人間的熟成までも求められているのである。
坐禅は「なすわざ」なのか「せぬひま」なのか判らない行為である。しかも実際に坐を組んでいないとき、つまり行住坐臥(ぎょうじゅうざが)の全てにわたって同様の心映えを鍛錬するから、ある意味で「せぬひま」の修行をしているようなものかもしれない。
例えば酒席でのお酌なども、「せぬひま」の重要な修行である。お酒を注ぐ技術などすぐにも覚えられるが、お酌という行為は、注ぐという行為よりもそれを繋(つな)ぐ「せぬひま」の充実を目指すことになる。しかも相手にそうした内心が見えてしまっては興ざめる。相手の反応に自然に対し、言葉を費やしながら、そのうえ興趣を盛り立てていくわけだから実に高等な修行と云えるだろう。もちろん、修行をしているというような内心も見えてしまったら「わざ」に堕する。要は「せぬひま」自体を無心に楽しむことが最高の接待にもなるのである。
もっと言えば、お酌をする側はまだマシである。お酌を受ける立場は更に修行底が問われることになる。お酌を受ける行為を「なすわざ」とすれば、誰もお酌に来ないときが「せぬひま」になる。その「せぬひま」の様子を見れば、だいたい修行の度合いが判ると云われるほどである。
お酌が来ないことに不機嫌になるのは問題外としても、あまり待ち望むふうでもいけないし無視を決めこむのも小心である。ではどうすれば佳(よ)いか、ということになるが、それが言葉で言えるくらいなら修行の必要もないだろう。世阿弥もただ「無心の位にて」としか言い残してはいない。
ずいぶん難しいことを申し上げてしまったが、つまりは芸能を稽古したり鑑賞したりすることで、それ以外の時間をも充実させてほしいということだ。「なすわざ」を磨くことで「せぬひま」も楽しくなる。それが理想ではないだろうか? 「せぬひま」は芸事の中にもあるし芸事を離れても勿論ある。言ってみれば人生の多くの部分は「せぬひま」で占められている。しかも齢(よわい)を重ねるに従って「せぬひま」は増える。充実した「せぬひま」が「なすわざ」を支え、逆に「なすわざ」が「せぬひま」に血を通わせる。
日本の芸能は、よく「間(ま)の芸術」だと云われる。それは恐らくこの「なすわざ」と「せぬひま」を双(ふた)つながら重視するからだろう。日本人が古来「余暇」という考えを持たないのも、案外このことに関係しているのかもしれない。「せぬひま」まで重視する我々が解放されるのは「余暇」ではなく「祭」においてである。忙しい日常を更に忙しくする「祭」こそが我々を解き放ち、蘇生させる。この講座を視(み)ながらあなたが踊りだすとき、それはあなただけの祭かもしれない。その時「なすわざ」と「せぬひま」はひとまとめに神に奉納される。鑑賞から稽古、稽古から奉納まで、できれば進んでほしいものである。
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