粋人有情
「もらい笑い」の思い出



 最近はあまり聞かないが、かつて中国には泣き女・泣き男という習慣があった。つまり儒教で葬儀をするに際し、儒教には僧侶に当たる人がいないので、儀式ぜんたいを泣くことで盛り上げ、ある種のカタルシスにまで運んだのだろう。
 唐代には多くの町に、泣き女・泣き男の番付表があったらしい。つまり東西の横綱や大関など、その技能によって、定期的にその格が決定される。葬儀を出す家は、予算に応じてそれらの人々に会場に来てもらい、泣いていただくのである。
 格は何で決まるのかというと、泣き方そのものを比較するのは難しいため、何人がもらい泣きしたか、という基準だったらしい。つまり横綱級などに頼むと、さほどではなかった人まで思わず泣きだし、葬儀会場は大勢の泣き声に包まれる。ああ、いいお葬式だった、ということになったらしいのである。
 泣くことが技能化してしまうのも、如何なものか、と思うが、ここで書きたいのは、じつは泣き女や泣き男ではなく、一人の笑い女のことだ。
 その方はリセット・ゲパードさんといい、もう三年ちかくまえに、私の『アブラクサスの祭』という小説をドイツ語に訳したいといってお寺においでになった。
 『アブラクサスの祭』は、現在は非定型精神病と分類される病気の僧侶の話だったから、さぞや神経質な難しい方がおいでになるのだろうと、私は先入観をもっていたかもしれない。しかしアブラクサスが今尚生きるドイツで読んでもらえることが嬉しく、私は大きな期待も寄せながらその日を迎えたのだったと思う。
 なんだかしかし、私にはその日の細かいことがもう浮かばないのだ。玄関から彼女が上がってくるまえに、私はなぜか大笑いしていた。
 なぜ笑ったのか。それもじつは、もう覚えていないのである。ただ確かなのは、彼女のほうが先に笑い、私はつられて笑っただけだ、ということである。
 むろん私たちは、小説についての話もきちんとしたはずである。年齢はたぶん四十歳くらいではなかっただろうか。彼女の専門は日本の文学と宗教であり、その知識には舌を巻いたのも覚えている。しかし具体的に彼女との会話を憶いだそうとすると、吹き荒れた一陣の風、という感じの、笑いしか憶いだせないのである。
 とにかく茶の間に坐ってからも、彼女は些細なことで笑いだす。それはけっして可愛らしい笑いではない。擬音語で云うなら、「くすくす」でも「うふふ」でもまた「あはは」でも「はっはっは」でもない。
 なんと云ったらいいのだろう。難しいが、敢えて音にすれば「げっひゃっひゃっひゃっひゃ」という感じだろうか。魔法使いのお婆さんの笑い方のようでもあった。
 そして私には、彼女が笑いだした事情がいつだって理解できないのだった。
 しかしむろんドイツの大学で博士号も取得しているらしいから、頭がおかしいわけじゃないことは判る。その彼女が、可笑しいと感じて笑っているのだから、それなりに可笑しいことがあったのだろう。
 ふとしたことで笑いだすとそれがなかなか止まない。そのうち私も「もらい笑い」してしまい、その状況がまた更なる可笑しさを誘う、という感じで、笑ってばかりいたのである。
 初めに泣き女・泣き男の話をだしたのは、もしも世に笑い女・笑い男という制度があったなら、彼女はきっと横綱級だと思ったからだ。私にとっても、「もらい笑い」など、それほど体験したことはない。
 それにしても、笑いつづけるだけで人は幸せな気分になるような気がする。翻訳ができて本になったという知らせは来ないが、なぜか私は、彼女を憶いだすだけでまた笑いそうになる。常に佳い感情とともに憶いだすのである。
 「もらい泣き」にしても「もらい笑い」にしても、おそらく人間どうしが瞬時に深く通じあえる証拠ではないだろうか。表面的な情報が伝わるわけではないが、大切なことはきちんと瞬時に伝わるのだろう。たぶん「もらい怒り」ということもあり得るような気がする。
 ただ彼女を憶いだすとき気になるのは、いつだって彼女が先に笑いだしたことだ。もしかすると彼女は、一人で部屋にいても、あんなふうに笑っているのだろうか……。
 そう思うと、瞬時に私の笑いは凍りつく。そして人間とは、解らない生き物だと、さっきとまるで反対の感慨を抱くのである。

月刊「日本橋」2005年9月号