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なんて不謹慎な題か、と思われるかもしれない。しかし断っておくけれど、私はお風呂がとても好きなのである。しかしだからといって「とても好きな般若心経」でいいかというと、それほど単純ではない。お風呂もいろんな入り方が可能であるように、般若心経にも実に様々な受け取り方があるからである。
凡(およ)そ、このお経ほどどなたにも人気があるお経はないだろう。さほどよみやすくはないのに、である。インドでも中国でも人気があり、日本でも禅宗などでは毎日のお勤めでよむ。また弘法大師は密教の経典としてよんで絶賛したため、密教でもよむ。浄土教系統では特別必要でもないように思えるのだが、どうもそうでもなさそうだ。タイトルにある「パーラミター」は伝統的に「到彼岸(とうひがん)」と訳されるから、彼岸となれば浄土教にとっても他人事ではない。まるで各宗派とも、同じ仏教であることの証拠とでもいうように、このお経をよむのである。なかには世間であまり人気があるから、という理由でよむ宗派もあるような気がする。そのことも、それほど好きでなくても風呂に全く入らない人はいない、という状況に似ている。
とかく日本人は簡略化が好きである。カラスの行水でも温まることは可能であるのと同様、大般若経六百巻が長すぎて読むに堪えず、当初からパタパタと転読したり、あるいは経藏に入ったまま回転させるだけでよんだのと同じ功徳がある、などど云われたのだから、そのエッセンスである心経に人気が集まるのは当然だろう。近頃事態はもっと進み、般若心経をあしらった帯や扇子、さらにはお守りなども見受けられる。意味は解らなくとも身につけるだけで功徳があると思われているようだ。
しかしこうした商魂に乗った人々の姿を見ていると、なんだか般若心経に顔向けできないのではないかと思うこともある。帯は顔の反対側だから顔向けできなくともいいの、というような問題ではない。だったら扇子など顔向けせずには使いようがないではないか?
般若心経は、禅宗的に申し上げれば、おそらく心に「(けいげ)」のない状態が実現された素晴らしさを説くお経である。とはひっかかりやつっかかり、まあこだわりと受けとめていいと思う。あるいは執着と云ってもいいかもしれない。そうであるなら、般若心経が刺繍されたり書かれているとはいえ、帯やら扇子に頼るのは言語道断ではないかと言いたいのである。
何物にも拘(こだわ)らず頼らないになれば、恐怖もなくなり、一切の顛倒夢想から遠く離れて静寂な心境を獲得できると心経は云う。「涅槃を究竟する」と表現されるのだが、それはによって初めて実現するのである。
しかし果たして我々凡夫に、の無い状態は訪れるのだろうか?
顛倒夢想でない考えなど、持つことができるのだろうか?
おそらく、あらゆる考えはから生まれ、どんな考えも顛倒夢想でしかない。しかも学問の分野ではから仮説が生まれたりするし、宗教の世界でもそれが本質的で大きなものだと「大疑団」などと呼ばれて称えられる。たとえそこまで立派なひっかかりではないとしても、我々は所詮から出発するしかないのではないだろうか?
ただその時、行く先にを想定せよと、心経は説くのである。この思椎の相補性・双面性こそが心経の真骨頂だろう。それはもしかすると、陰が極まって陽に転じたり、あるいは煩悩がそのまま菩提に変わる瞬間を信じなさいと云うことかもしれない。またあらゆる「考え」から離れた状態を想定し、という状態にある種するところに、禅的「信」の出発点はあるのかもしれない。
その状態は、「空」と表現される。これこそが心経のテーマでもあり、この「空」がどんな状態なのかが詳しく説かれる。「空」の観点からすれば、あらゆるものは生まれないし滅しない。垢がついたり浄らかになったりもしない。また増えたり減ったりもしないと云う。一体これはなんだろうか?
例えば「命」というものを考えると、風呂に入らないからといって別に命に垢がつくわけじゃないし、一日二回入ったからといって清らかになるわけでもない、ということはたぶん風呂なんかに喩えなくたって解る。昔から禅では、純粋に心の問題として「空」を捉え、例えば曇りなき鏡などに喩えられて語られてきたことだ。常に何かを映してはいるが残像を残さない鏡を、心の実相である「空」として理解したから、その伝では汚れた人を映しても怒った人を映しても鏡がその垢に染まることはない。それは、鏡そのものに疑問をもたなければその通りなのである。しかし「不生不滅」や「不増不滅」」については、どうも重い人や軽い人を映した鏡に喩られても逃げとしか思えないだろう。
少し意地悪かもしれないが、次ぎに書くことが理解できるだろうか?
つまり新たに子供が生まれても、人が死んでも、増えも減りもしない何か、そして同様に、生じてもいないし滅してもいないという見方。意地悪と書いたが、結局そのことが理解されなければ「諸法」における「空」が理解できたとは云えないのではないだろうか? 「諸法」とは「すべて」なのだから。
ハンガリー系のユダヤ人物理学者ロジャー・ベンローズは、物理学的に心や意識も究明しようとする立場に偏したことからホーキングなどと袂を分かつことになった。私は彼の立場にとても興味があるのだが、要は「空」である「諸法」というのが単に心の問題として心情的に処理されるべきではないと思うのである。
アインシュタインによれば、宇宙を満たすエネルギーは常に一定だと云う。それはまだ偉大なる仮説に過ぎず、もしかしたら証明されようもないのかもしれないが、もしそれが本当だとしたら、と考えるのは、で「空」なる実相を想定するのと極めて似ているように思える。そしてそう思うと、プロティノスの云う「一者」も、『大乗起信論』の云う「真如」も、あるいは一休さんの歌った「無漏」や老子の云う「無為」というのも、まだ形状化する以前のエネルギーに対する「仮名(けみょう)」に思えてくる。
現代物理学は、すでにかなり以前から五感の知覚しえないエネルギー世界を射程に入れている。そしてもしアインシュタインの仮説が本当なら、質量もエネルギーと互換性があることになるから、心経の「色」と「空」の説明もそんなふうに聞こえてくる。
曰く、「色」つまり物質は「空」つまりエネルギーに他ならない。また逆に「空即是色」だから、エネルギーはいつか必ず質量をもつのである。また「受想行識」というから、感覚や想念や意欲も、あるいは自我という精神組織も、みなエネルギーの表れとして理解できると聞こえてくる。考えようによっては、エントロピーの法則およびその逆の流れを「色」と「「空」によって説明しているように思える。むろん、「空」の原語である「シューニャ」つまり膨らんだり拡散したりするというエネルギーの捉え方は正のエントロピーである。
そう思えば生まれることや死ぬことも、エネルギーと物質との、終わりなき循環の一齣に過ぎないことになる。観自在菩薩は「五蘊は皆空なりと照見して」一切の苦厄から救われたと冒頭に語られるが、それはそういうことだったのではないかと、近頃思えるのである。
禅と違って浄土教は、特にそう考えたほうが「到彼岸」を理解しやすいだろうと思う。死によって恐らく形状を離れてエネルギー化する部分があり、そのエネルギーを何らかの形で感得する臨死体験の延長上に、浄土教は生まれたのではないだろうか?
むろんベンローズの探求が奏功すれば、心をもエネルギー側から語れることになり、奇しくも禅と浄土教は思いもかけなかった場所で合一するのかもしれない。
生まれてこの方、ほぼ毎日のようにお風呂に入ってきた。そして同じように般若心経も毎日のようによんできた。三百円あげるから覚えなさい、と云われて覚えたのが幾つのときかは忘れてしまったが、振り返るとじつに多彩に読み方が変化してきたことを実感する。
その時々の考え方を載せて般若心経をよんでいたのだろうと思う。必ずしも今のこうした読み方が絶対だと思うわけではない。今後も様々な読み方をするに違いない。しかし少なくとも心経には、私自身のそうした揺れを受け容れてくれそうな柔軟さがある。それは「空」を説きながら決して「色」を否定していないからではないだろうか? との相補性は、そのまま「色」と「空」の双面性なのである。「空」を知ることで我々の人生は格段に豊かになると思う。しかし所詮我々は、この二相の間を蛇行しながら生きていくしかない存在なのだと思う。風呂の中では躰の束縛が弱まり、俄かに躰の内外を出入りするエネルギーを感じたりするものだが、そうは云いながら我々は、垢つかない「空」の器である「色」の垢をこすって晴々したりしながら、「色」とも積極的につきあっていくのである。
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