美しい日本語
有為の奥山   



 「美しい日本語」と云われても自分がそれを使っている自信は全くないから、ここでは最近の体験を紹介してみたい。
 私の住む三春町では日本では初めて教育長の公募を一昨年行い、私もその選考委員を務めさせていただいた。五百人以上の応募があり、その論文を読むのはじつに大変な作業だった。私はそのときに老眼鏡なるものの必要を初めて感じ、購入した。そろそろそういう歳だったのだと周囲の人々は言うが、私としては他人の文章を集中的に読みすぎたせいではないかと、今でも独り思っているのである。
 自分の文章を読むより、たしかに他人の文章は疲れる。理由はさまざまだが、しかしその中に一つ、じつは全く疲れないで読みすすんでしまった文章があった。その文章について書いてみたい。
 それはおよそ選考の疲れのピークに出逢ったと云ってもいい。提供された場所では読み切れず、かなりの量の論文を寺に持ち帰って読まなくてはならず、私はいささか辟易(へきえき)しながら最も長いその論文を読み始めたのだった。活字でプリントされていたが、原稿用紙に換算すると八十枚ほどだったと思う。
 眼もかなり疲れていたのだが、その文章は眼にも頭にもじつに優しかった。まず内容が面白かったのは言うまでもないが、どうもそれだけではない。私は風呂にまでそれを持ち込み、読み続けていた。
 最終選考にその人は残ったから面談の機会があった。そこで私は正直な感想を申し上げ、素直に訊いてみた。「本当に読みやすい素敵な文章だったのですが、どうしてなのか分かりません。どうしてなのでしょう?」
 するとその人は「たぶん」と前置きしてから言った。「私は文章を書くとき、まず和語はひらがなで書き、漢語は漢字で書きます。そして全体を見渡すとどうしてもひらがなが多くなりますから、ひらがなだらけの部分に漢字を填(は)めていくんです。私はもともと活字のデザイナーなものですから」
 つまり文章全体の景色を最終的にデザインとして調整しているというのだ。
 私は唖然とした。デザインとして調整することはともかく、今の日本に和語と漢語を書き分けられる人がどれだけいるだろう? たとえばここまでの文章でも、その観点からは「全く」「初めて」「優しい」「面白い」などはひらがなであるべき語彙になる。日本式の読み方をすべて和語と捉えればそれはもっと増えるだろう。この「増える」だって本来的には和語で、「増(ぞう)」をそう読むことにしたわけである。
 このような書き分けは、私には無理だと諦めている。しかしその文章に感じた魅力は、たぶん和語のもつ意味の多様さと具体性に由来していたのではないかと思う。
 和語は少ない語彙で多様な意味を表す。「あわれ」「はづかし」「あたらし」「やさし」など、文脈で解釈するしかない言葉が多い。だから我々は漢字を上手に使い分け、曖昧さを克服しているわけだが、それは本来の複合感情を分断することにもなっているような気がする。和語を意識して書かれた文章で、私はその本来の複合感情に触れたのではなかっただろうか?
 和語は意味的に複合的であるだけでなく極めて具体的である。いわば概念語が少ない。「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」という概念を「いろは歌」に翻訳した日本人を、私は敬愛するのである。「色」「匂い」「散る」「奥山」「夢」「酔」という具体への還元は、即ち物語の発生だろう。世界で初めての長編小説を生んだお国柄は具体性と複合性が好きだったのではないかと思う。
 あれ? ちっとも具体的でなく複合的でもない文章になってしまった。「浅き夢見じ酔いもせず」に佳い文章を書きたいと思うのだが、さても言葉とは、なかなか越えられない「有為の奥山」に違いない。

「文藝春秋」2002年9月臨時増刊号