桜はなぜ日本人みんなの花になったのか、考えてみるとよく解らない。
桜は国産の花木だというが、「桜」という文字は、中国からやってきた。桜は国産の花木だというが、「桜」という文字は、中国からやってきた。むろん中国の漢詩でも桜は古くから登場する。おそらくはそれを真似て、『古事記』『日本書紀』にも僅かながら描かれ、『万葉集』には四十四種ほど、桜が詠じられる。
しかしこの時代の「桜」が、今の桜と同じ樹木である保証はない。なぜなら桜は国産なのだから、中国に先にあっては困るではないか。
たしかに中国と日本では同じ樹木でも別な文字で表されることは多い。今でも中国では椿が「柊」、金木犀は「桂」と表現されるし、「柏」といったらヒバの仲間のコノテガシワのことだ。それと同様に、中国で古く「桜」と書かれたものは、日本でいえばユスラウメのことらしい。花はよく知らないが、赤い実のなる可愛らしい木である。
要するに、我々の読む文字表現では古くから「桜」を見いだせるが、それはあくまで漢詩を模倣したのであり、表現が指す実体は変化していったのではないか、ということだ。因みに九一八年成立の『本草和名』にはその記載がなく、九三○年代の『倭名類聚抄』になって初めて「左久良」という注記があらわれる。記紀にも「佐区羅」という表記はあるが、実体はゆっくりしかし確実に、ユスラウメから今のあのサクラに変わってきたのだろう。
それにしても桜は、昔から日本各地に遍く存在したのだろうか。
平成天皇(七七四〜八二四)は「桜花に賦す」と題する詩で、「昔、幽岩の下に在り、光華、四方を照らす」と桜を詠む。これは明らかにユスラウメではなく、あの桜だと思えるから、天皇の好きだった奈良界隈にはたくさんあったのかもしれない。
しかし奈良の桜、吉野の山桜が自然に繁殖して全国に広がるわけもない。どうも各時代に熱烈に桜を愛し、あちこちにそれを増やそうと思った人がいたようだ。
古くは桜町の中納言。この人は『平家物語』にも登場するが、「つねは吉野山をこひ、町に桜をうゑならべ、其内に屋を立てすみたまふ」ほどに桜が好きだったため、桜町の中納言と呼ばれたらしい。
なぜそんなに桜を植えたがったのか、本当のところはむろん解らない。しかしそこには、些かなりとも信仰に近い気分が感じられる。もともと吉野の修験者たちは、日本国じゅうの聖地霊場に桜を植えて廻った歴史があるらしい。そうしたなかで、西行のような桜狂いも出てきたのである。
以前私は、桜への熱狂は生死の境、あるいは浄土への入り口を感じさせる魅力ではないか、と書いたことがある。たしかに西行や世阿弥を読むとそうも思う。
しかし一方で、この木をどんどん植えて増やそうという人々の気分はまったく違うのかもしれない、と思う。私の住む三春町に十六世紀に築城した領主は、平安時代からあった巨木の枝垂れ桜の周囲に、同心円状にその子供に当たる苗木を植えた。そしてそこに神社仏閣および四十八の館を築いたのである。
そのうちの一本がうちのお寺にもあるのだが、お寺の山にはやがて大正五年、四人の檀家さんたちによって三百五十本もの桜が植えられる。この熱狂的増やし方は、いったいなんだろう。
そういえば折口信夫が「サクラ=サ(穀霊)+クラ(座)」として農業神の降り立つ木と規定するまでは、たとえば芳賀矢一の「SaK」に注目した説もあった。語根としての「Sak」は「酒」や「栄」や「盛」や「幸」にも共通する。つまり折口先生のおっしゃるサ(穀霊)の宿る神聖な木というより、もっと庶民の愚かな願望をも受けとめる音韻を含んでいるというのだ。
むろん、どちらが正しいというつもりはない。桜の前に佇むと、神の宿る気配も感じるし、これを増やして花盛りにしてやろうという俗な欲求ももってしまう。学界は、折口先生の高尚な説を定説化させたが、たぶん両方とも桜の貌なのだろう。
おそらくは神仏に幸や栄や盛を祈る気分が酒と共に咲きわって増殖し、桜はいつしか日本人みんなの花になったのである。
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