日本人なら、「三途の川」を知らない人はいないだろう。しかし実際どんな川なのかは、案外知らない人が多いのではないだろうか?
日蓮の『十王讃歎鈔』(日蓮に仮託された偽書らしい)によれば、その川幅は四十由旬(ゆじゅん)だという。一由旬とはもともと帝王の一日の行軍距離だ。諸説あるがおよそ四百メートルから六百メートルだというから、短く見積もっても十六キロ、多く見れば二十四キロもあることになる。そんな幅のある川は、日本にはないだろう。(一由旬=約七キロ説だと二百八十キロもあることになる)
三途の川が現れたのは『地蔵菩薩発心因縁十王経』が最初だとされる。これは『地蔵十王経』とも略されるため、同様に略される『閻羅王授記四衆逆修生七斎功徳往生浄土経』と誤解されることもある。
これまで後者は中国で作られ、前者はその影響で日本で作られたものとされてきたが、近年敦煌から将来された十王経図巻を検証した結果、やはり原型は中国で唐代末にでき、それが日本で加筆訂正されてできたのが『地蔵菩薩発心因縁十王経』ではないか、と考えられるようになった。(以後、これを『地蔵十王経』と表記する)やはりそんな大河のイメージは、中国発だったのである。
この『地蔵十王経』を下敷きにして書かれた注釈が『十王讃歎鈔』だと思えるが、そこでの描写をもう少し見てみよう。
悪人のみ渡るのが強深瀬(『地蔵十王経』では江深淵)だが、その流れの速きことは矢を射るが如く、浪の高きこと大山の如し、とされる。そして浪のなかには多くの毒蛇がいて罪人を責め喰らうらしい。また上流から大きな岩が流れてきて罪人の五体を微塵にうち砕く。しかし死んでもまた生き返り、生き返ってはまたうち砕かれる。まるで等活地獄の予習のようだが、さらに酷い。水の底に沈もうとすれば大蛇が口をあけて飲みこもうとし、さりとて水面から顔を出すと今度は鬼王夜叉が弓を射るというのだ。もうハチャメチャである。
そこまで酷いイメージをどうして描けたのか、日本人にすれば不思議な感じがするが、中国では大河を生活の舞台にしている人々が今でも大勢いる。日本人が趣味で川釣りをするようなレベルではなく、彼らは川の漁師として生活をたてているのである。今年になって揚子江では、電気ショックで大量の魚を獲ろうとする人が増えたため、水産資源保護の観点から期間をくぎった禁漁の処置をとった。近年では川を舞台にした物売りも大勢いるわけだが、それだけでなく実は農民にとっても大河流域は豊穣な舞台だった。
大きな川には浪もあり、氾濫もする。しかも季節によっては海からの水が逆流する川もあるから、毎年多数の人々が犠牲になる。しかし中国人の力強さで、氾濫がおさまると、危険を感じながらも当分は大丈夫だろうと思い、川縁の肥沃な土地に田畑を作って生活する人々がいつの時代にも大勢いたのである。そのため氾濫が起こるたびに何万、何十万もの人々が洪水で失命してきた。その繰り返しこそ、中国の歴史だと言っても過言ではないだろう。だからこそ禹王も治水の功績で高く評価されるのである。
その洪水の酷さは我々の想像を絶する。たとえば元の時代には浙江一帯が水に浸って交通が途絶え、お寺とお寺、つまり山と山の間を船で行き来したという話が残っている。死者はもちろんだが、その後の飢饉にも人は目を覆ったことだろう。やはり大河沿岸に発達した文明をもつ国にとって、川には万感の思いが流れているのである。家族を川で失った人々の思いは実にさまざまなイメージを描かせたのではないだろうか?
ところで中国では、もともと死者はすべて地獄へ行くと考える。六道でいえば三悪道、つまり地獄・餓鬼・畜生のことだが、これを元来「三塗(さんず)」という。そこへ行く途中に通るのが三途の川である。(ただし異説もあり、三途の川という表記は日本発なので『日本書紀』の中で禊ぎが行われた三津瀬の転化ではないか、とも云う。三津瀬→三途川)
なぜ皆三悪道ゆきなのか、というと、それは「施餓鬼」の発想にはっきり表れているが、人はみな、我が子への依怙贔屓という罪を犯すからである。愛情は使っても減るものじゃないから、どの子も平等に愛情を注げばいいものを、人はなかなかそれができない。だから愛情を惜しんだ罪だというのだ。
それなら子供のうちに死んだり、結婚せずに亡くなった場合はどうか? それは、親に孝養をつくすべき子供がそれをせずに死ぬわけだから、死じたいが親不幸の罪である。
三途の川の岸辺に賽の河原はある。そこで石を積んで遊ぶ子供になんの罪があるのかと思ってしまうが、孝を重視する中国では彼らも当然三塗行きなのである。
中国での死後の世界にも、いろいろな変遷がある。
古代には「黄泉」「九泉」「幽都」など、地下にあると考えられたようだ。また古くから山岳信仰の中心であった山東省の泰山も、「死者の魂は泰山に帰する」などと云われ、冥府と見なされてきた。北方の鬼門から行く幽暗の地というのもよく知られている。おそらく地域によって当初はさまざまな世界が描かれ、川の沿岸地域では水中と考える人々もあったということではないだろうか? そうした様々なイメージが唐代に入って総合される。中国古来の冥府説とマニ教の冥府信仰、仏教の地獄説、中陰の思想、道教信仰、それらが総合され、当時完備されてきた官僚機構の組織も取り込みつつできあがったのが十王信仰であり、『地蔵十王経』なのである。
たぶんそうした成立事情のせいだろう。三塗の世界、あるいは地獄世界全体のなかでの三途の川(向こうでは「奈河」)の位置づけが、どうもはっきりしない。つまり、そこを渡れば別世界があるというふうではなく、もうすでに始まっている三塗世界の一部、あるいは途中という印象しかないのである。
三途の川に死者が差しかかるのは二七日である。このときは既に初七日の秦広王の審判を経ており、次には初江王の審判が待っている。たぶん秦広王のところは書類審査だけという感じだが、それでも三塗への道行きをしなければならないことは決定している。
三途の川を渡り終えるとまた七日ごとに別な審判王の審査をうけ、五七(=三十五)日にはあの有名な閻魔大王の前に立つことになる。そこには浄玻璃(じょうはり)という、水晶玉だろうか、生前の悪行が残らず映しだされる画面があり、うっかり嘘をつこうものなら舌を抜かれるわけである。
それにしてもその審判の経過はじつに念入りである。詳細を書くことはここでの主題から逸れるから記さないが、それは主に五戒への侵犯を微に入り細にわたって調べ上げ、来世の行き先を決めるわけだ。
ここでも不思議なのは、これほどに念入りに調べるなら、そのあとで三途の川を渡せばいいと思う。なぜなら川には渡る場所が三カ所あり、そのどこを渡ることになるかは罪の軽重で決まるからである。先程書いた強深瀬(江深淵)は悪人が渡り、水量が膝下までという浅水瀬(山水瀬)は罪の浅い者、そして善人は金銀七宝でできた橋を渡る(有橋渡)という。書類選考だけでその違いを弁別するのだろうか?
そう思って各審判王の審査内容を見てみると、どうも各王の連携が足りないように思える。例えば第二法廷の初江王は、主に殺生戒の罪を裁き、第三法廷の宋帝王は邪淫戒への抵触を裁く。第四法廷の五官王は特別な秤で死者の言動の悪を一瞬にして裁くらしい。そして第五法廷の閻魔王である。
それぞれが違った罪を裁くように、一瞬思えるかもしれない。しかし考えてみれば人間が犯す罪は複合的である。複合的な罪を各方面から分析するというわけだが、なぜか各王は自分の判断で最終決定をしない。次々と先送りにしていくだけなのである。
第六法廷では変成王の裁きがあるが、これはそれまでの分析をとりまとめる場所に思える。当然五官王の秤による計量結果や閻魔王の浄玻璃に映っていたものも報告される。そこで総合的に合理的に判断すればいいような気がするのだが、ここでも最終決定は下されない。
これがじつに面白いのだが、最終の第七法廷、つまり四十九日目の判定が全く可笑しい。これまで念には念を入れて調べてきた挙げ句に、第七法廷の泰山王は六つの鳥居を指し示し、どの鳥居をくぐって進むかを自由に選ばせるというのである。
当然六つの鳥居の先には地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という六道世界がある。行く先は三悪道だったはずなのに六道に増えている。これは時代がくだり、また日本に来て、緩んだ結果と云えるだろう。大抵の宗教は時代と共に裁きが緩んでくる。キリスト教が懺悔すれば許すというのも後代のことだ。
それはともかく、最終的に大事な審判を、勝手に選ばせるとはどういうことだろう。最後の最後を偶然にゆだねることは、これまでの審査を無駄にすることのように思ってしまうのだが、それは偶然とは認識されていないようだ。生前にその人が作ってきた「業」が、自ずと然るべき鳥居を選ばせると云うのだ。
そこまで来て再び三途の川に戻ってみよう。いわば秦広王の「勘」で渡り場所を決められ、そこを渡りきると、岸には「衣領樹」という木があり、奪衣婆と懸衣翁という二人の鬼形の爺婆が待っている。二人は連携し、奪衣婆が脱がせた衣服を懸衣爺が衣領樹に投げあげる。その際、死者の生前の罪の軽量によって枝のしなり具合が違い、また罪が重いほど上の方の枝に懸かるという。その結果を資料として次の法廷に送る、というのだ。
最終結審の四十九日までを俯瞰してみると、じつに多種多様な判断が入り組んでいる感じがする。勘に頼ってみたり、合理的に分析しようとしたり、あるいはロシアン・ルーレットのように天命に任せたり、それはまるで、大勢で相談しながら全員の意見を採用したようにも見えるし、時代と共に書き加えられていった部分も感じる。
三途の川の渡し賃と云われる「六文」というのも妙に現実的である。賄賂さえ想像してしまう。じっさい後代には、六文銭を渡せば奪衣婆に着衣を剥がれずにすむことになるようだ。また平安時代には歩いて渡るしかなかった三途の川に、室町時代になると船が登場する。六文はその船賃ということになる。
くどくどと書いてきたが、正直なところ私には、三途の川にあまり日本的な川の風情が感じられないのである。「三途の川」という名称、あるいは「奪衣婆」などは『地蔵十王経』の日本での加筆部分で現れてくるらしいが、それでも印象はあまり変わらない。
どうしても見えてくるのは中国の濁った大河であり、官僚世界の現実、豊かな拷問制度、そして当時の国際的な人間交流なのである。じっさい三途の川がギリシャ神話やゾロアスター教との交流によって生まれたものではないかという説もあるようだ。三途の川には、いわば当時の活気に満ちた長安の空気が流れ込んでいるようにも思える。清澄とはほど遠い混濁、換言すればこの川は奔放なエネルギーに満たされていると感じられるのである。
百年河清を待つ、という言葉にリアリティーがあるほど、おそらく中国の大河には透明度がないのだろう。そこには雛を流したり桃が流れてくることはない。むしろ理不尽な力でときおり氾濫しては人間を飲み込み、その供養としての食物をも施餓鬼のあとで飲み込んでいく。
しかし「彼岸」と「此岸」という言葉は、こうした川幅のある中国の大河があってこそ生まれたのだろう。渡るのに船で何時間もかかる川であれば、向こう岸になにがあるのか分からない。同族がまとまって住む習慣のあった古代中国では、なおさら「彼岸」へ渡ったことのない人も多かったのではないだろうか? だから行ったことのない「彼岸」を理想郷に準えたのも解らないではない。
しかしその言葉が、我が禅宗を語る場合には混乱を招いていることも確かである。「幸い」が「山のあなた」に住むと思ったり、青い鳥が遠くにいると思って旅に出るのは世の常だが、大抵それは足許にある。十牛図で求められる「悟り」の牛も最後は家に戻ってきて、その存在すら忘れてしまうのである。
求める「幸せ」は、「彼岸」ではなく、浪の下にあってこそ相応しいと思うのだが、それはやはり、私が日本の川を思い浮かべるからなのだろう。中国ではその発想をもてなかった。川の濁流の中は得体の知れない生き物の住む処であり、煩悩の浪のない理想郷ではあり得なかったのだ。
しかし「彼岸」に幸せを求めるかぎり、それはなかなか訪れないはずである。三途の川(奈河)の場合は彼岸も此岸もいずれにしても裁判の途中であり、別な世界へ渡るというわけではない。少なくとも彼岸が理想郷でないことは確かだ。そのことが、我々にある種の覚悟を促していると思うのは穿ちすぎだろうか?
我々は今現在、三途の川を渡っているのである。
ついていきかねる世の中の流れは矢のように速く感じ、また自分の力を超える責任のありようは溺れそうな水嵩である。下からは部下が食いつきそうな顔で睨むし、水面から顔をだせば矢を放つような攻撃を上から浴びる。それはあるいは、自分の猜疑心や疑心暗鬼の化身かもしれない。しかしそうであろうと、それは紛れもなく我々の現実なのである。
そのとき、川から逃げ出しても次々に苦難が待ち受けているのは、七つの法廷を見れば判ったはずである。
あなたは嘘をついたことがないだろうか? 人は殺してないまでも、無数の生き物を殺してはいないだろうか? 異性に対して刺激的な行為は慎んでいるのだろうか? 飲んで正体を失ったことはないだろうか? そして、何によらず他人の物は盗ったことがないだろうか?
おそらく、私もあなたも、かなり悪人なのである。そうであれば死後、深瀬を渡ることになるのは間違いない。それだけじゃなく、あなたが今いる場所が三途の川だと思ってみては如何かと、私は言いたいのだ。ついにはそこで泳ぎ遊ぶ日がくるに違いない。
しかし実のところ、そんな覚悟をして苦労するよりも、というわけだろう。日本人は中国発の三途の川(奈河)のイメージそのものを、長年かけて変質させてきたようだ。
以下は、「さいたま川の博物館」の第二回特別展「三途の川」の成果からであるが、日本には現在、三本の三途川がある。群馬県甘楽町を流れる利根川水系の一級河川、千葉県長南町を流れる一宮水系の二級河川、そして宮城県蔵王町を流れる阿武隈水系の河川だが、いずれも三途川と名づけられている。これらの河川周辺の言い伝えや寺院施設などを見ていると、そこにははっきりと当初のイメージからの変質を看取ることができる。
まず何より、川の向こうは本来は三塗(三悪道)だったのに、いつのまにか六道に広がったのは先程六つの鳥居の話で見たが、これは鳥居という表現を見れば日本製であることは明らかだ。そしてこうした変質はそこでは止まらない。例えば千葉県の三途川流域には南北朝時代からの天台宗寺院、長福寿寺があるが、ここでは三途川を渡ると東門があり、それをくぐるとその先は極楽だと云うのだ。近所の人々も葬儀の時しか東門はくぐらないらしい。ここははおそらく「彼岸」という言葉の影響もあるだろう。彼岸はどうしても涅槃なのだ。
また群馬県の三途川では、川に車がとびこんでも怪我人がでないと云われるし、十王図を表装し直すと長生きするという言い伝えもあるらしい。つまり。三途の川のイメージがなぜかどんどん明るくなっているのだ。
日本人は亡くなった先祖を想うとき、けっして地獄にいるとは思わない。長い歴史と様々な死生観が複合して今や楽観的にしか想像しないから、三途の川の変質もいわば当然のことかもしれない。
さらに「川の博物館」では、奪衣婆が幕末からは所願成就の流行神に変質したことも併せて示す。学芸員の高橋朝彦氏がその奪衣婆への願い事が面白いと云って紹介しているが、それは日本人の逞しさを余すところなく伝えているので、そのまま紹介したい。
(願い事その一)「御利益で女房がお産を軽くいたしました。なんぼ軽いとて、ご飯を食いながら産みました。産んだのを知らずに、またお膳を三膳食べました。ありがたい、ありがたい、ありがたい、」
(願い事その二)「御利益でおふくろが病気もすぐに治りました。小言ばかり言ってこまります。どうぞ、また少しあんばいの悪いように願います」
昔の奪衣婆は形無しである。今や咳止めや子供の虫おさえ、あるいは受験生の学業成就に霊験のある奪衣婆までいるのだ。
考えてみれば日本版『地蔵十王経』は各審判王に本地仏を設定して三回忌までの追善供養の必要を説き、それだけじゃなく、その法廷での審判の背後に慈悲を見ようとした。たとえば閻魔王は地蔵菩薩だというのである。すでにそのことが、日本の地獄や三途の川が恐ろしくないものになる萌芽だったのではないだろうか?
あるいはもしかすると、その変化は遥かな縄文時代への回帰だろうか? 本来、仏教の世界観・他界観を述べた『倶舎論』や『大毘婆沙論』に川は登場しなかった。地獄の流布に功績のあった源信の『往生要集』にも書かれていない。しかしそれよりずっと以前、縄文時代後期から晩期の遺跡に、住居域と墓地域の境に人工の川を作った痕が発見されているのである。(新潟県朝日村の奥三面遺跡〜おくみおもていせき〜)それは『日本書紀』の三津瀬の存在とも符合する。もしかすると日本人は中国よりずっと以前から他界との境に川を見ており、それが地獄思想などの影響でいったん中国的にイメージが拡大したものの、時を経てまた元の日本的な川に戻ったということなのかもしれない。
じっさいこの原稿を書くにあたり、私は何人かの友人に三途の川のイメージを訊いてみたが、誰もそんなに幅広い川を想わないし、水流も緩やかである。つまり、三途の川は日本のどこにでもあるような川に変化してしまっているのだ。それが単なる逞しい変化なのか、あるいは古代からの他界観への回帰なのかは私には判らない。
ちなみにキューブラー・ロス博士は多くの臨死体験者の話を採集し、死後を極めて明るく語っている。いわく、「無条件の愛に満たされた世界」、「否定的なものがありえない存在界」。そしてそこへの「移行」の際に通る「門」とか「川」という景色は、文化的なものだと言う。スイスに生まれた彼女が体験したのは、野生の花でいっぱいの山道だったというのである。
三途の川の川幅や水流が変化し、その水質も清まって極楽へも通じてしまったのは、たぶん日本的な文化現象なのだろう。しかし世界には、古来三途の川に相当する川が多く存在することも確かだ。古代エジプト人はナイル川の西岸をあの世とし、またギリシャ神話にはステュクス河など「五河」が登場する。ゲルマン人の死者はギョル川に架かる橋を渡ると云うし、ヒンドゥー教の神話では地下のヴァイタラニー川が描かれる。ゾロアスター教でもあの世へ行くにはチワント橋を渡るというから川があるのだろう。そういえばダンテの『神曲』でもあの世の川を渡っている。
文化的背景のせいで臨死体験に川を見る、というロス博士のような説もあるが、じつは逆に大勢の臨死体験からそのようなヴィジョンができたと考える人々もいる。浄土思想は曇鸞(どんらん)の臨死体験から成立したと考える学者もいるのである。
どちらが先なのかは私には判るはずもない。しかしロス博士の言うとおり文化的な「移行」の景色だとしても、いずれおそらくは私も通ることになるのだろう。文化的なものだとすれば現実から多くの影響を受けて変化することは今後もあるだろうが、せめて今後、三途の川の水が枯れることだけはないように祈りたい。そしてその先は、やはり極楽であってほしいものである。結果報告はいずれ私が死んだあと、四十九日でも終わってから、日当たりのいい極楽の池のほとりでのんびりと書いてみたいものだ。
※この原稿を書くにあたり、さいたま川の博物館の図録ほか、以下の皆さんのご指導を仰いだので報告し、感謝の意を表したい。野口善敬氏、朝山一玄氏、徳重寛道氏、並木優記氏、松下宗柏氏。ありがとうございました。
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