『こんなふうに生きてみたら』 前書きより

   手紙のなかの「虚」と「実」




 母から子への手紙を、今年もたくさん読んだ。
 原稿用紙一枚だけなのに、どうしてこうも揺さぶられ、袖を絞らされるのか、些かまいってしまう。
 それはきっと、手紙は小説などと違って、「実」だからではないかと考える人もいるに違いない。しかし私は、それは違うと思う。
 あらゆる表現は、文字にした途端に「虚」なのであり、本当に感動する文章は、いつだって事実に寄りかかりはしない。たとえ現実に起きたことでも、それは表現する時点で一旦「虚」として構成し直される。どう表現するかは、いつだって自由なのである。
 書き手である母親が、いわば選び取った「虚構」としての語り口に我々は感動するのだろう。
 「虚」とはっきり意識して構成し直すことは、言い換えれば母親自身が現実そのものを掴みなおす過程でもある。不幸な出来事であるなら、立ち直る経過と見ることも可能だろう。私はおそらく幾つもの手紙に、それを書くことでようやく立ち上がった母親の、凛々しい立ち姿や逞しい笑顔を見たのだと思う。
 今年の最優秀作は、書くことによって涙を怺え、やがては痛快に笑ってしまう作業を、日々孤独に重ねてきた人だろう。一読してそう思った。授賞式に会ったご当人は「書くことが三度のご飯より好きです」と笑いながら仰ったが、そうした彼女の今を支えつづけ、その笑顔を作ったのが、じつは「書くこと」なのだと思った。
 手紙といえども、それは第三者に読まれる事情に関係なく、誠実な虚構として書かれ、そして読まれるべき作品だと思うのだ。
 「母から子への手紙」である以上、しかしそこにはどうしようもなく凭れてしまう「実」がある。誰もがおそらく自分の子供時代を憶い、また母親としての体験さえ偲んでしまうことだろう。しかもそれは自分でもうまく言葉で言えないような思いだから「実」なのだ。けっして誰にでも共通するイメージではないはずなのに、「母と子」の関係はどこか普遍的なイメージを求めようとする。そのイメージを、おそらく読者は勝手に行間に潜り込ませてこれらの手紙を読むのだろう。
 たった一枚の「虚構」がこれだけの感動を呼び込むのは、あるいはこの「母性」という「実」の力にも依っているのだろうか。
 今の時代は、おそらく誰もがこの「母性」を捜し求めているような気がする。母性とは、女性性ではない。異物をも包み込んで育み、この自分を理屈ぬきで支える無条件の安心感のことだ。
 その意味でこの本は、男女に拘わらず、自分のなかに潜む「実」としての母性に出会うためのテキストかもしれない。「実」としての母性のことを、仏教では古来「慈悲」と呼ぶのである。