透明な軌道の、その先




 宮澤賢治について論じるなんて、猛獣の何匹もいる檻のなかに入っていくようなものかもしれない。大勢の人が本気でカンカンガクガク論じる様子は、ほんとにちょっと怖いと思う。
 どうしてそうなるのかと考えると、理由が二つ思いつく。一つは賢治の作品や人生が、そうして喧嘩になるような極端に違う人々にも愛されてしまうこと。そしてもう一つは、その極端に違う人々にそれぞれ反論の証拠を与えてしまうほど、賢治の作品が暗喩に富んでいるということである。
 ぱらぱらと眺めているだけで、賢治の作品にはじつに多くの経典知識が感じられる。そしてそれが、多くの暗喩を産みだすのだとも気づく。だいいち『春と修羅』の序文にしてからが、般若心経の翻案である。「わたくしといふ現象は、仮定された有機交流電灯の、ひとつの青い照明です」というのだが、これは「色即是空」という世界認識そのものだ。ご丁寧にも「ひかりはたもち その電灯は失はれ」と書かれるが、ここで「ひかり」は空であり、「電灯」は色なのである。
 賢治は熱心な浄土真宗信者であった宮澤家に生まれ、その影響下に育ちながらも、やがてキリスト教や禅にも触れ、最終的には田中智学の影響を受けながら日蓮主義者になっていく。困ったことに、賢治の作品にはこれらすべての宗教の影響が見られるのである。
 賢治と父との間には、はっきりと宗教的な対立があったわけだが、そればかりでなく、賢治を応援する人々はそれぞれ別な立場から賢治に共感し、互いに争うという現象が起こる。賢治学界は、それほどに熱っぽいのである。
 世界の幸福を目指した賢治を同じように愛する人々が、それゆえに争う姿はそれこそ『春と修羅』ではないか。
 賢治自身は「自己を見つめよ」と諭す浄土真宗の島地大等と距離をとり、やがて久遠の釈迦仏を信奉する『法華経』に没入していく。そのときの賢治は、もしかすると来世を信じていたのかもしれないと思う。
 「もうけっしてさびしくはない なんべんさびしくないと云ったとこで またさびしくなるのはきまっている すべてさびしさと悲傷とを焚いて ひとは透明な軌道を進む」(小岩井農場パート4)
 そうした悲壮な思いで、透明な軌道をいったいどこへ進むのか。『よだかの星』のよだかのように、猛禽にも食べられず、虫も食べずに済むには一つの星になるしかなかったのか。春は此の世になかったのか。
 どうしても宮澤賢治を想うと、私はそんな悲痛な思いをなぞらずにはいられない。『銀河鉄道の夜』は、彼自身が自分のために書いた「中陰」(死後、次の生を得るまでの在り方)の物語であり、彼はその後の、別な時空を信じていたのだと思う。彼のためにも、それがあってほしいと思うこの頃である。

 

「仏教を歩く」30号