エッセイ特集:今さらですが、お詫びします。

 積み木を蹴って、ごめんなさい     




 今でこそ「和尚さん」なんて奉られ、あまつさえ芥川賞作家ということで「先生」などと呼ばれたりしているが、私には懺悔すべき過去が、かなりあるのである。
 道場で警策で叩かれ、叩かれることを納得できる理由が見つからなくなると過去のそうした事実をまざまざと憶いだす。私としてはそれで一応の懺悔は済んだものと思っていた。しかし世の中には妙な企画を考える人がいるものだから、ここに書かないと許されない気分になってきたりする。全く困った企画である。
 大学を卒業してから英語教材のセールスをしていたことがあった。一週間に何本売ったかが棒グラフに張りだされる会社で、新宿の高層ビルのなかにあった。なんとか収入を増やし、小説を書く時間を作りたいと、どこかから手に入れた名簿を手がかりに朝から電話をかけまくる。そして駅近くの喫茶店で会う約束をとりつけ、そこでセールストークをするのだが、システムを貶しながら商品を誉めるという私のやり口はかなりの確率で信用された。確かに商品は悪かったとは思わないが、予備校生が受験を控えて買うようなものじゃない。
 当時埼玉県坂戸市在住の予備校生だったT君、ごめんなさい。私の口車で親を説得し、二十万以上する商品を買ってくれたよね。私は申し訳なくて、自分が受験のときに作ったテープを二度渡しに行ったけど、その後受験が成功したかどうかは怖くて確かめられなかった。今はもう四十歳ちかいと思うけど、元気でしょうか。
 遡れば高校時代にも中学時代にもあるけれど、私だってそれほどたくさん告白したいわけじゃない。幼稚園時代の私を語れば、この企画には充分応えられると思うのである。
 当時の私は人一倍からだが大きく、しかも乱暴だった。
 自分で覚えているのは、板の間の広間でみんなが大きな積み木をしていて、私がそこを歩き回りながら積み木を蹴っている場面である。なぜ蹴ったのかは覚えていないが、この時のみんなに謝りたいと思う。
 この地方では「山学校」と云うのだが、私は幼稚園に行くにも裏山を通り、その山で遊んでしまうためほとんど定時までには着かなかった。みんながもう何かを始めた頃にようやく園に到着するのである。積み木を蹴ったその日も、たぶんそうした状況だったのだと思う。
 別なときには、山で捕まえた蛇の頭の下を右手で摘み、幼稚園のガラス窓に蛇と一緒に貼りつくように私は出現した。ガラス戸の内側で悲鳴をあげながら逃げまどい、あるいは私を指さしながら先生を呼んでいる園児たちの姿があった。それがマムシだと知らされたのは叱られたあとのことだ。
 ほどなく私は、その幼稚園開園以来と後に知る往復ビンタをS先生から喰らうのである。ビンタのときの感覚は、全く覚えていない。ただ小学校を卒業した日に幼稚園に挨拶に行くと、その時にS先生からビンタの話を聞かされ、「こんなに立派になるなんて信じられない」と言われたのである。別にそのとき特別立派でなかったことは明らかだから、つまり幼稚園時代がよほど非道かったということだろう。幼稚園で往復ビンタを喰らった少年として、当時一部ではけっこう有名だったのである。まあビンタで帳消しと考えれば、その件は、謝らなくてもいいか?
 それにしても、そうした剛の者として一貫していたならそれはそれで立派かもしれない。しかし私は、なんと幼稚園でお漏らししてしまったことがある。お漏らしといってもそれはトイレでの出来事だったから、いわば間に合わなかったということだろう。詳しい状況は覚えていないし、覚えておきたくもない。しかし忘れられないのは、そのとき自分のズボンを貸してくださった大内絹子先生のことである。今は別な姓になっているけれど、絹子先生ごめんなさい。そしてありがとうございました。
 それにしてもこの企画の狙いはいったい何なのだろう。調子に乗って書いてしまった私が莫迦だったような気もする。

 

「小説宝石」 2003年9月号