ワガママから禅定へ




 私がいた道場では、毎月一度の「摂心」という集中的な修行期間になると社会人の修行者が大勢おいでになっていた。
 ちなみに私が入門した頃の修行者は、お寺出身が約半数、在家出身者が約半数だったから、摂心になると在家出身者のほうが多かったことになる。
 働きながら摂心に参加する人々は「居士さん」と呼ばれたが、人によっては夕方から夜だけ来る人、昼間だけの人、あるいは一週間は完全に我々と寝起きを共にする人など、じつに様々なパターンがあった。それぞれの立場による都合が尊重されていたのだと思う。
 もしあなたが仏教に興味をお持ちならば、この本で自分に合った場所と方法を捜し、なんらかの「行」を実践してみては如何だろうか。志があれば大抵の門は開かれるはずだし、仏教は仏道として実践してみないと殆ど意味がないと私は思う。


 ここで提案されるのは「週末出家」ということだが、これも長く続きさえすれば間違いなく「居士さん」だろう。居士とは仏教徒の自覚をもって実際に修行する人のことだ。
 本で学ぶだけか実際に修行するかという違いは、おそらく想像以上に大きい。だからこの提案は、じつは学問から体験へ、仏教から仏道へ、という大転換の勧めなのである。
 大袈裟に言えば、それは不自由から自由へ、というベクトルの転換でもある。蓄積しつづける知識はどんな知識でもそれだけでは我々を不自由にするが、我々はそれを「身につける」ことでやっと厄介な知識を忘れることが可能になり、その知識から自由になる。
 たとえば週末だけでも、「行」をすれば必ずや体に変化をもたらすはずだし、ことによればウィークデーに独習が可能になる「行」もあるだろう。「行」による体の変化こそが、自由を感じさせてくれるのである。
 人によっては所作や作法を面倒がり、途中で嫌になることもあるかもしれない。しかし分かっておいてほしいのは、自信をもってできる所作が身につくということは、それだけで「どうすべきか」という迷いから自由になることだ。やがてはどんな場においても、そこに相応しい美しい振る舞いをしている自分を見出すだろう。いや、本人が意識するのではなく、会社の同僚などに言われて気づくのかもしれない。


 むろん仏道を実践することの功徳は美しい所作ばかりではない。ではいったい何を目指しているのだろう。
 簡単に云えば、あらゆる仏道修行は「禅定」を目指している。
 「禅定」とは梵語の「ディアーナ」であり、「静慮」とも「等持(とうじ)」とも訳されるが、要は向き合った仕事と私が一体になること。なんの思考も交えずにそのことに「没頭」する技術を習得し、それによって本来具わっている智慧を発現しようというのである。
 念仏もお題目も写経も坐禅も、そのために開発された技術だと云えるだろう。
 没頭とは、別な言葉でいえば自分が百%「今」にいること、とも云える。人間が思考するというのは過去の材料のなかへ分け入り、その材料を弄ぶことだ。だから過去を憶おうと未来を想おうと、思考する限りそれは「今」から居なくなることなのだ。今、ここで、思考しない時間を味わうために我々は「行」をするのである。思考しないでどうしているのか……。ただ「今」を感じ、味わっている、ということだ。
 考えてみれば、我々の人生というのは思考と禅定とを繰り返している。禅定となるべき対象を定めるのはむろん理性的思考だが、今度はそこに没頭することで我々は「やりがい」や「達成感」ときには「幸福感」さえ味わう。大切なことは、そうした感慨というのは、思考ではなく「禅定」によって味わう感覚だということだ。
 現代という時代は、おそらくあまりにも思考が優先されているのだろう。幸せを感じにくいというのは、そういう事情ではないかと思う。
 つまり端的に申し上げれば、仏道という「行」は幸せを感じる能力を高めるためにするのだとも云える。むろんその渦中にあっては、そんな思考も吹っ飛んでしまうからこそ幸せなのである。


 本来なら、私が道場に入ったように、しっぽりと道場生活を過ごすことが、禅定を身につける早道だろうと思う。
 しかし全てを放り投げて出家するということは、よほどタイミングが良くないと叶わないことだ。お釈迦さまなど、周囲の反対を押し切り、ワガママを通す形で出家したわけだが、あの方の場合は特別である。しまいには父親までが帰依し、養母や妻が弟子として尼僧になるほどの教えをもたらしたのだから当初の親不孝もチャラだろう。
 しかしなにも我々は、お釈迦さまを目指そうというのではない。
 現在の仕事にもっと没頭でき、やりがいや生き甲斐、ひいては幸福感を感じたいだけなのだ。それならむしろ、週末出家こそが相応しいスタイルではないだろうか。


 人間は、いつだって矛盾したり相反する価値観の間を往復することで鍛えられる。いや、鍛えられるというより、それによってじつは、無限のエネルギーを産みだしているのかもしれない。物理学で云う「相補性」も中国の陰陽も、結局そういうことではないだろうか。
 理想と現実、実相と虚仮、本文と妙用、いずれも片方だけで済むものではなく、何度も往復しながら、それぞれ現実、虚仮、妙用のほうを充実させていく。
 つまり会社に勤めながら週末だけなんらかの「行」を続けるということは、とりもなおさず仕事を充実させていくことであり、決して仕事からの逃げではない。しかも仕事という現実からの照り返しを受け、「行」のほうからも思わぬ意味を汲み取れるはずである。長年、専門に、という人々に叶わない部分はどうしたってあるにしても、むしろそうした人々よりも現に仕事で悩みをかかえたりしている分、「行」への取り組み方も切実になる。


 お釈迦さまは二十九歳で出家。苦行六年、その後は川での沐浴後、七日でお悟りをひらいたとされるが、この短さは、恐らくお釈迦さまの抱えていた切実さに起因していたのだと思う。なんといっても妻子を置いて城を出ているのだから。
 べつに私は、わざわざ家族に迷惑をかけよ、と言いたいわけじゃない。独り暮らしの人だっているだろうし、独身だったり子供がいなかったりするかもしれないが、それは本人の切実さを測る上でなんの基準にもならない。とにかく今の生活に切実に思い悩むことがあるなら、週末出家でもして、断続的にでも「行」をしてみては如何か、と申し上げたいのだ。
 往復するといっても一応は出家なのだから、先ずはそこにあまり世間的価値を求めずに行ってみることだ。さっき申し上げたように、相反する価値観を往復するからこそ意味がある。すぐに禅定が体験できるわけでもないだろうし、仕事ぶりが急に変わることもないだろう。お金にもならず、むしろお金がかかる。慣れていないから、苦痛もあるだろう。直接それによって、家族や誰かが喜ぶわけでもない。そう覚悟して、一種のワガママと自覚して出かけてみるのである。
 荘子は、世間的には役立たずに見えることに潜む真の有用さを「無用の用」と呼んだ。また私は、先ほど「禅定」の重要さと必要性についても申し上げた。しかしそういった理屈で週末出家を正当化するのではなく、先ずは気楽に、「ごめんね、ワガママ許して」と、同居人がいれば低姿勢で告げて出かけるのである。
 単なるワガママと思って始めても、続けられれば事態は変わってくる。あなたの変化を見て興味を示す友人や同居人は、誘ってしまえばいい。続けたくもなり、また知人が興味を示すような変化が、必ずや起こるはずなのである。
 え? そんな保証ができるのか?
 保証はしません。だから気楽に、ワガママとして始めてみたらと申し上げているのである。


 

『お寺へ行こう!週末出家』