坐禅と瞑想



 先日、ご縁があってベルギーとハンガリーに行ってきた。主な用事は女房がブリュッセルで行う「こより」の展示の手伝い、そしてそれだけじゃなんだから、と設定されたブダペストでの私の講演だった。
 そちらのほうはお陰さまで無事済んだが、私はその暇を縫ってあちこちの修道院にお邪魔した。戒律のことを考えたい、という理由からだったが、行ってお話を聞いてみると戒律以外のことでも実に様々な話になり、興味深かった。
 ベルギー二ヵ所、ハンガリー一ヵ所で合計三人の修道女、一人の修道士からじっくりと話を聞いたのだが、なかでリエージュというベルギーの地方都市の修道院で出逢ったブルーノさんというシスターの話が印象深い。
 その修道院はベネディクト派に属し、彼女は東西霊性交流にも参加したことがあったから、こちらが臨済宗の僧侶だというだけで初めから友情の笑顔で迎えてくれた。そして院内を案内していただくと、なんと我が師匠、平田精耕老師の色紙が壁に掛かっており、また彼女の自室で見せていただいたアルバムには、先輩である安永祖堂老師の姿も写っているではないか。そしてアルバムを捲っていくと、妙心寺山内での摂心に参加した彼女の姿もあった。
 すでに禅への予備知識もあり、摂心の経験もある方だったから、私は「ブルーノさんたちの瞑想は、坐禅とどう違うんですか」と素直に訊いた。すると彼女はしばらく沈黙したまま目線を上にして考えていたが、やがてはっきりした声で言った。
 「坐禅は、心をからっぽにしますし、私たちの瞑想も心をからっぽにします。それは同じです。しかし私たちの場合、そこに神さまが降りて来られます」
 ベネディクト派の瞑想は坐禅との共通点が多い。だからこそ東西霊性交流も実り多かったのだろう。しかし私はその違いのほうに、むしろ感じ入っていた。微笑みを崩しはしないが、私は彼女に逆に問い返された気がしたのだった。「あなたがたは、ただからっぽにするだけなのですか」と。
 私は今回の旅に岩波文庫から出ているベックの『仏教』を持参していた。それはドイツ人の碩学がキリスト教側の人間として、仏教から学ぶべきものを探ろうとした名著である。そこでは当然のことながら坐禅は瞑想と表現され、瞑想こそ釈尊がお示しになった解脱への道なのだと書かれている。しかもベックは、瞑想の詳しい段階や方向性についても、初期仏典から詳しく解説していたのである。
 私はブリュッセルのホテルや街角でその本を読みながら、日本で今行われている坐禅では、方向性が説かれないことを不思議に思っていた。そんなときにブルーノさんからそう言われたから、実のところドキッとしたのだった。
 私は恐る恐る訊いてみた。「神さまとは、なんですか?」すると彼女はきっぱり答えた。「目標です」
 やはりそれは、明らかに瞑想の方向性を規定する存在なのである。
 初期仏典に示される瞑想の方向性とは、四無量心と云われる。「慈・悲・喜・捨」つまり他人に対して慈しみ、悲しさに共振し、喜びを共にして嫉妬せず、自分の感情表現はあくまでも平静に、という四つの方向に、心を無限に拡大せよと説くのである。
 しかし殆んどの坐禅の機会に、そのことは説かれていないような気がする。確かに短い時間の坐禅では、からっぽになるのが精一杯ということもあるだろう。また専門に坐禅する道場では、そのうち分かるだろうと鷹揚に構えることもできるかもしれない。しかしただの三昧、ただの禅定が危険であることは、戦争体験を通じて充分に認識したはずではなかったか? 三昧・禅定は我が国では「一所懸命」とか「没頭」とか云われるが、一所懸命没頭して人殺しするのも可能だったことを、歴史は語っているのである。とくに「没頭」という言葉には、見るからに危険な趣さえある。
 ただ坐るだけで三昧になるのは、恐らく最も難しい。草引きとか雑巾がけとかの単純作業をしていたほうが三昧になりやすいはずである。あるいは念仏・お題目を称えることも禅定を実現するには坐禅より効果的だろう。何もせずに坐っていると、妄念が雲のように湧きでてくる。その最も困難な状況で三昧を修しているからこそ、その禅定力は最大になるのではないだろうか?
 しかし最大の禅定力をもった人間に、心の方向性がないとしたら、これほど危険なこともないだろう。そのことを日蓮さんは「禅・天魔」と喝破したのではないだろうか?
 今、虚心にお会いした修道女や修道士たちを憶いだすと、不思議に皆さん人格的高潔と優しさに溢れていると感じるのはある種の僻目だろうか?
 からっぽで三昧の中に降りてくる神さまに対して、人によっては「それは妄想だ」と切り捨てるかもしれない。しかし私には、唯一絶対なる存在に抵抗はあるものの、彼らの瞑想を導く方向性としてひどく重要なものと思えるのである。
 そこまで考えてから、私はふと修道院の壁に掛けてあった平田老師の色紙を憶いだした。それは淡い墨で一円相が描かれ、そのなかに「一期一会」と書いてあった。もしかするとそれは、三昧で無限大に拡がった円相のような心の、方向性ではないのか。そう思ったのである。
 平田老師はよく円相の中に文字を書かれる。「雪月花」であったり「無事」であったりいろいろだが、そうして思い返すとそれは自然への慈しみであり自己への信頼に裏付けられた平静という方向付けなのだと気づく。しかしそう思うと尚更、坐禅における禅定の方向性が、もっと坐禅の現場で示されるべきだと思う今日この頃なのである。


「法光」(臨済会機関紙) 2003年春彼岸号