週刊  シルクロード紀行
シルクロードへの誘い <45>

 浙江省の天目山(てんもくざん)という山に、日本で云う鎌倉時代の中期、アジア全域から学生を集めた優れた教師がいた。中峰明本(ちゅうほうみょうほん)という臨済宗の禅僧である。
 敢えて教師と書いたのは、当時日本や朝鮮半島、そして中近東などから集まった生徒たちには、とくに宗教を学ぶという気分はなかったからだ。むろん「宗教」などという言葉も使われなかった。ただ人として生きる道を、どこまでも出かけて学びたいという気持ちが、若者たちを駆り立てていたのだろう。日本からは当時、七十数人が中峰禅師の弟子になっている。
 うちのお寺の初代である復庵宗己(ふくあんそうこ)という方も、三〇歳で海を渡り、中峰禅師のもとで、一七年ほど修行された。しかもその死に目に遭ったため、師匠のお墓の横に庵を建てて更に足かけ三年(二五ヵ月)過ごしたらしい。当時の服喪(ふくも)の習慣をかたくなに守ったわけだが、そんな弟子は大勢いたようだ。
 おそらく開山さまは、青森県の十三湊(とさみなと)から商船に便乗し、寧波から陸路天目山まで歩いたのだろう。
 私は一九九九年の夏、檀家さんを引き連れて天目山に入った。当時、歩いてではなく、上海まで飛行機で飛び、そこからバスである。
 開山さまに申し訳ない気分はあったものの、それよりも同じ地を踏む感激のほうが遥かに大きかった。ただ抗州を越え、目的地に近づくにつれて、あまりに家が減り、電柱も見当たらなくなってくるため、すぐに夜の漆黒の世界が想像された。往時の闇の深さや、そこに住む獣たちへの怯えはいかばかりだったかと想われたものだった。
 文化大革命でお線香も絶え、僧侶もいなくなっていた麓の禅源寺(ぜんげんじ)には、三一歳の老師がしばらくまえに入り、一人っ子政策であるにも拘わらず修行者も年々増えているらしかった。我々のために厳修(ごんしゅう)してくれた法要は大勢の修行者の声が轟き、からだが奥底から顫(ふる)える気がした。
 彼らはその後山上の中峰禅師のお墓まできびきびと案内してくれ、我々は無事開山さまの師匠の墓参ができたのであった。
 いったい彼らが、今も昔のように道を求めて集まってきているのかどうかは判らない。
 しかし、老師がお土産に用意しておいてくださった横書きの墨跡には、力強く「高提祖師」と書かれていた。同じ師匠の教えを汲む者どうし、その教えを高く掲げようということだろう。今も祖印を継承する者たちが、シルクロード沿線に僅かでも生き残っているのを夢みる。
 最近の中国の経済的な動きを見るにつけ、また彼らが「日本は嫌いだ」と公言して憚らない様子を見るにつけ、私は本堂に掲げた「高提祖印」に扁額を、切ない気分で見上げるのである。



「週刊シルクロード紀行 No.45」2006年8月27日号(朝日新聞社)
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