特 集 
心と体を
ととのえる
仏教の呼吸法
呼吸が運ぶもの



生きていることは呼吸していることである、と申し上げても、文句はあるまい。

 医学的には外呼吸と内呼吸に分けられ、空気を吸い込んで肺に採り入れるのが外呼吸、肺胞膜を通った血液によって全身の細胞に酸素が拡散する過程が内呼吸と呼ばれるが、あくまでもそれは理解のための分析である。

 実感としては、人はいつのまにか呼吸しているし、それは酸素の運搬のためばかりではないように思える。

 呼吸は普段、自律神経が管理しているということになっているが、どうも昔の人はそれを自然と共通する現象としてみたようだ。つまり、自然界に風が吹くのと同じように人は呼吸し、太陽が照るように人も眼で万物を照射する、という具合である。ちなみに『禅林世語集』には次のような道歌が紹介されている。

  風は息虚空(こくう)は心日()は眼(まなこ)海山かけて我が身なりけり

 

 古代インドのウパニシャッド哲学において、「我」を表す「アートマン」はもともと「気息」を意味した。そしてこれは、むろん呼吸であると共に風でもあった。やがて宇宙の創造力の主体としてのブラフマンと、このアートマンが本質的に同じであるという考え方が生まれるわけだが、これも偏にアートマン側の「気息」という流通作用に依るものだろう。

 普段は自律神経に任せている呼吸を、意志的に行なってみようというところから、おそらく仏教的な行は始まる。むろんそのこと自体を目指さない場合も多いから、それと気づかないことも多いだろう。

 たとえば読経、念仏、そして礼拝など、いずれも呼吸そのものを意識してはいないが、お経も念仏も息は吐きながらしかできないし、礼拝という行為も、繰り返すうちに呼吸との規則的な関連ができてくる。簡単に云うなら、からだを屈するときは吐き、伸ばすときは吸う、という具合である。

 こうした行を繰り返すうちに、吐く息は次第に長くなり、短時間で深く吸えるようになる。

 さまざまな人間の行為や感情には、それに相応しい呼吸状態があることも、やがてわかってくる。たとえば腹が立てば呼吸は短くなり、安らかであるというのは呼吸が深く長いこと。またヴァイオリンで難しい旋律を弾くときとか、野球でボールを打つ瞬間など、極めて高い集中力が発動している場合は呼吸も止まっている。概ね、吐くときに副交感神経が優位になり、吸うときにガンバリ屋の交感神経が活躍する、という具合だろうか。

 そうして意識的に呼吸するようになると、意識によって呼吸ばかりか血流まで左右されることも感じるようになる。意識を置いた場所に血液も向かうらしく、その部分が温かくなったりする。だから呼吸のときも、吐きながら意識を動かしてやるとそれにつれて内呼吸も制御できるように思える。意識を置いた部分の血流が盛んになり、そこに酸素が充分に行きわたる結果、温かくなったと感じるのである。

 冬場の坐禅中によくやったのは、吸った息をまず丹田(下腹部)に溜め込み、そこで充分に温まった空気を、ゆっくり背骨に沿って遡上させ、両肩から両腕におろしていく呼吸である。不思議なことに、掌から息が抜けると意識するとき、掌は確かに温かくなった。そして全身も、なんとか木枯らしに耐えられたのである。

 いわゆる腹式呼吸というのも、子供においては自然になされているが、我々大人も意識して習慣化することで取り戻すことができる。医学上の呼吸はすべて肺を通して行われるわけだから、吸ったとき腹部が膨らむというのも妙なものだが、妙なことがいくらでも起きるのがこの体という自然なのである。
 いったい意識というのはどのようにして芽生えたのか、そんな疑問を持ってはお釈迦さまに叱られそうだが、それにしても意識の力は偉大である。

 しかし意識して呼吸を制御し、意識の置き場などにも意識的になってみると、結局その後に感じるのは意識の無力なのだ。

 眠っているときも含め、無意識の領域はあまりにも多い。そのことにも仏教は気づき、第六意識の下に、第七未那(マナ)識、第八阿羅耶(アラヤ)識、そして宗派によっては第九阿摩羅(アマラ)識まで想定した。しかもその全てにおいて淡々と行われているのが呼吸である。

 呼吸はやはり、私がしているのではない。だから「アートマン」というのも、当然意識できる「我」ではない。どんなときにも呼吸を行わせる自己の本質とでも云えばいいだろうか。それが、宇宙の創造力の本質であるブラフマンと通底しているというのである。やがてそれは「梵我一如」という「解脱」の様態に昇華されることになる。

 梵(ブラフマン)と我(アートマン)とのこの関係は、じつは中国の「元気」の思想にも似ている。

 元気とは、やはり天地の本質的な創造力であり、それが個人にも分与されて誰もが元気になれる。しかも個人の中でこの元気は養うことも可能だとされた。その際、当然重視されたのは呼吸であった。

 意識できてもできなくても止まない呼吸。それによって宇宙と繋がっているという感覚は、ごく自然に納得できる。

 死にゆく瞬間に接した何人かのうちの一人は、最後に驚くほど長く深く息を吐ききってから瞑目した。まるで、宇宙から借りていた「元気」の元金を返したように感じたものだった。

 ふだん私は、宇宙の真ん中で、地球に腰掛けて坐る、と感じながら坐禅している。むろん科学はその見解の誤りを糺すだろうが、それが坐禅中の実感なのだから仕方ない。

 そして呼吸する際は、自分の中の毒気を宇宙に吐き出して浄化してもらい、新鮮で清らかな空気をいただくように思念する。

 いつの日か、私も自分の息を宇宙に「捧げる」つもりで吐いてみたいとは考えている。しかし今のところ私の息など宇宙のご迷惑にすぎないと思うから、せいぜい綺麗にして戻していただいているのである。

 仏教が呼吸を重視した結果生まれてきたと思えるものに、「アミターバ」という光の浄土がある。

 称名念仏などに没頭し、脳内が酸欠に近くなってきたりすると、酸欠に強い細胞と弱い細胞の総合力が変化し、普段とは違った世界を見せたりするものだが、おそらく光に包まれる体験も、網膜内にあって光を感じる円錐細胞が酸欠に強いという事情に関係するのだろう。

 オウム真理教(現・アーレフ)は、水中クンバカや過酷な五体投地によってこの体験を即席で得ようとしたかに見えるが、やはり普段の行の延長に、死ぬまえに体験してみたいものではある。死ぬ直前にはきっと体験できると思うのだが、できれば元気なうちにしてみたいものだ。
 こうした不可思議な体験を、英語では「インスピレーション」というが、この動詞に当たる「インスパイアー(inspire)」という言葉も、本来は「息を吸い込む」ことだ。しかもこの語には「霊感を与える」意味のほかに「元気づける」という意味もある。つまり、霊感や元気は外から内に来るものと考えられているのだろう。

 果たして「ブラフマン」や「元気」のように外側からやってくるのか、それとも第七摩那識以下の、心の奥底からやってくるのか、それはわからない。
 晩年、キリスト教を仏教的に理解した遠藤周作氏は「神は阿羅耶識にいる」などと仰っているから、そうなると心の奥底はやがて底抜けになって外に通じているとも考えられる。阿羅耶識を集合的無意識(Collective Unconscious )に置き換えて研究したカール・G・ユングは、統合失調症における妄想なども全てが内側から来るわけではないと分析している。また我が臨済宗の白隠禅師なども晩年に若き日の禅定体験を語り、「内魔、外魔に便りを得」というような言い方をしている。
 いずれにしても我々は、理知では捉えられないインスピレーションに豊かに彩られながら、この人生を生きていくのだろう。つまりそれは、死ぬまで呼吸を止めないということなのだ。呼吸のうちに秩序もできるだろうが、渾沌も入り込む。やはり気息が風という見方は、じつにマットウな感覚だったような気がする。

 ここまで、私は個人の身体的および心理的コミュニケーションとしての呼吸について書いてきたつもりである。呼吸こそは内外のコミュニケーションを促す最も基本的な手段だと思うからだ。

 ところで対人的なコミュニケーションではどうなのだろう。

 たとえば朝、人を起こすような場合、息を吐ききったときにポンと突いてやると目覚めやすい。そこまで意識してあげるのが優しさというものだろう。

 またターミナル・ケアにおいては、相手の呼吸に合わせてみることが重要だとされる。同じテンポで呼吸することでしか開かない心があるということではないだろうか。

 このように、テンポが一致することを「同期」と呼ぶのだが、人間以外の生物界ではよく知られた同期現象がいくつかある。
 たとえばホタルの発光。同じ地域に住む同じ種類のホタルにおいて、基本的に発光するテンポは一緒なのだが、光るタイミングはむろんマチマチである。ところがこれを同じ部屋に入れてしばらく待つと、全く同じタイミングで光るようになる。つまり、彼らがお互いに呼吸を合わせた、ということえ・板垣崇志ではないだろうか。

 またコオロギの集(すだ)く声などにもこの同期が認められる。秋の夜のコオロギの声があんなに遠くまで聞こえるのは、彼らがなぜかぴったりモノフォニーを形成するせいなのである。

 生物の、こうした個体間の同期現象がなぜ起こるのか、私は今とても興味がある。むろん専門家の研究成果を待つしかないわけだが、少なくとも私は、そこに呼吸が関与していることに強く惹かれるのである。
 コオロギが鳴くのもホタルが光るのも、息を吐くことに関係している。我々がお経をあげるのも念仏を称えるのも、吐きながらするのである。
 何かを念じようとすると、人はまず一度息を止めて眼をとじ、念じるイメージをそこで明確にしてからゆっくり息を吐き出していく。そして息を吐くことでそれを何かに伝えようとするのではないだろうか。
 もしそれが人間にとって自然なことなら、おそらくそれはホタルやコオロギにも共通しているだろう。

 辞書的にはあらゆる生物の呼吸は「ガス交換」と規定されているが、呼吸が運ぶものはたぶんガスばかりではないはずである。

「大法輪」2006年3月号