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なぜだろう、茂木さんの書かれるものは、すんなり腑に落ちる。
ご本人には心外かもしれないが、たぶんそれは、文学的だからというだけでなく、仏教的あるいは禅的だから、かもしれない。
今回茂木さんが手にした鉗子は「仮想」という言葉だった。すでにクオリアによって充分繊細かつ文学的になっていた彼の脳科学は、今度は「仮想」によって仏教的になろうとするかに見える。
むろん仮想という言葉は仏教語ではない。しかしそれは、あまりにも五薀(色・受・想・行・識)のなかの「想」に類似している。物質としての色が我々の五感によって「受」けとめられ、それが意志的な思いとしての「行」になる前に「想」がある。これはつまり、感覚をあるまとまった方向へ導こうという志向性のことだ。そう、仮想なのである。
茂木さんの云う仮想は、おそらく無数の「思い出せない記憶」をも取り込み、たとえば「夢」や「憧れ」、あるいは思い込みや妄想なども包摂するばかりでなく、あらゆる概念や膨大な無意識、そして禅で云う「悟り」までも含んでしまったのだろう。「悟り」が仮想でないと、誰に言い切れるだろう。
禅でも、昔から仮想にまつわるテーマを扱ってきた。いやむしろ、ある意味で仮想なき世界を目指したのが禅だと云ってもいい。あらゆる仮想を排除した世界を想定し、それを「真如」とか「実相」と呼び、そこに到ることを「悟り」だと仮想したのだ。茂木さんの言葉にすれば「けっして知り得ない『現実自体』」との遭遇かもしれない。しかしじつは、それも仮想なのである。
唯識同様、感覚もすでに仮想に染まっていると考えるなら、あるいは「色」と「受」との間に、すでに仮想はあるのかもしれない。ともあれ禅は、それを外して世界と向き合おうとした。
面白い禅語がある。「銀椀裏(り)に雪を盛る」というのだが、私は『脳と仮想』を読みながら、何度もこの言葉を憶いだした。『碧巌録』第十三則、本則に拠る。
ある僧が巴陵(はりょう)和尚に「提婆宗(だいばしゅう)の宗旨とはどんなものでしょうか」と問う。すると巴陵が「銀椀裏に雪を盛る」と答えた。端的に意味を申し上げれば、「見分けがつかないくらい似ているが、全く違う」ということだ。
クオリア原理主義者に訊くまでもなく、むろんここでは雪と銀椀のクオリアの違いが主張されている。詳しいことは省くが、つまり仏教と提婆宗とは、逆に云えばクオリアの違いというくらい似ていたのだ。
禅は、大雑把な平等観(同定)をひどく嫌う。「同じ女じゃないか」「同じ人間じゃないか」と云うまえに、その違いこそ見るべきだと考える。そうして具(つぶさ)に見るうちに、似たような姿のなかにも違いが歴然と見えてくる。それを平等中の差別と云う。「銀椀裏に雪を盛る」も、そのような認識を示した言葉だと云えるだろう。
しかし差別が見えてきても、そのまま差別的に見るだけでは不充分だし、だいいち味わいがない。圜悟(えんご)禅師は、提婆宗とはどんな宗旨かという質問の部分に、「白馬蘆花(はくばろか)に入る」ようなものだ、と著語((じゃくご)短評)を加えている。これも、基本的にはさっきの言葉と同じ意味で、異なっているのに見分けられない状態を示す。
しかしこれらの言葉は、時には逆に、差別を諒解したうえで平等を楽しむ態度をも示す。女性同士の連帯も人類愛も、この差別のままの平等として実現されなければならないということだ。同様の言葉に、「明月鷺(さぎ)を蔵す」「(ろじ)雪に立つ」などの美しい表現がある。
考えてみれば、自然界には何一つとして全く同じものはない。それならなぜに人は、同じと感じることができるのだろう。
おそらくそれは、茂木さんの云う仮想のお陰である。「同じ」とか「違う」という概念も、脳の志向性が描く仮想に違いない。
チンパンジーの言語や赤ちゃんの研究で知られる進化心理学者のプレマック先生には、面白い研究報告がある。ヒトだけが概念を所有し得るわけだが、そのなかでも異同の概念の習得は、ヒトの幼児において驚くほど遅いという。ほとんどの幼児は、四歳になるまで、たとえばこの靴とあの靴、また二つの違う帽子を、同じ靴とか帽子としては認識できないらしい。当然、母親と近所のおばさんを、同じ女とも同じ中年とも思ってはいない。それなら幼児たちは、敢えて違うと認識しているかというと、そういうことでもない。いわば個物だけがありありと観じられているのだろう。むろんそこには、「靴」や「帽子」や「女」や「中年」という概念もないということだ。
その感じというのは、もはや憶いだすスベもない。
しかしおそらく禅は、そこを目指しているのだ。いわばクオリアが仮想のもつ志向性で括られる以前の状態を、体験したがっているのだと思う。茂木さんが書かれているように、我々は「仮想において自由になることができる」。そういう側面も確かにあるわけだが、禅はむしろ「仮想以前」に絶対的自由を見出そうとしたのだろう。
そうなると、身につけてしまった我々の言語機能が重大な障害として立ち現れることになる。むろん言葉は、茂木さんの云うように「思い出せない記憶」の蓄積として、膨大な懐かしさを孕んでもいる。しかし言葉は同時に、無数の微妙なクオリアの違いを、強引に二元化する斧にもなる。漱石が円覚寺で頂いた公案を茂木さんも紹介していたが、「父母未生以前の本来の面目」とは、善悪、美醜、尊卑、そして異同というような二元論を超えた絶対的自由の地なのである。
それにしても、三歳くらいの幼児にはいったい銀椀に盛った雪がどう見えているのか、あらためて想像してみる。三歳ではまだ脳梁も繋がりきっておらず、左脳や右脳の働き分けも始まっていないだろう。きっと彼らは、そんな馬鹿馬鹿しいこと、という判断もなく、ただクオリアの差異だけを「柳は緑、花は紅」というように、眺めるだけなのだろう。禅とは、一度言葉や無数の仮想を身につけてしまった人間が、たぶんそこまで戻ろうという馬鹿馬鹿しくも壮絶な旅路なのである。
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