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近頃は「丸暗記」などと云うと、なんて時代遅れな、と思われる方が多いかと思う。たしかに学校でも、戦後は丸暗記など流行らなくなってしまった。人はもっと高級な、思考のできる生き物だということなのだろう。
しかし思考したり理解したりすることと、それを暗記することは、もとより全く別の文化だ。脳のはたらきとしても別な事態であることが、最近はSPECTなど測定機器の進歩で明らかになってきた。要するに、文字を読んで思考するのに使う部分よりも遙かに広い部位を、暗記したものを再生する場合には使うのである。
別にそうした事実を知っていたわけではないだろうが、お釈迦さまという方は自分が弟子たちに話すことをメモすることを許さなかった。いや、お釈迦さまに限らず、インドの宗教の伝統的な考え方として、師匠が直接弟子に話すことはそのままそっくり暗記すべきだと考えたのである。
話すときに伝わるのは音、表情、そしてそれ以外に気配というものもある。その中から言葉の一部だけを文字に抽出する「メモ」などというものは、情報を極度に矮小化するものと見なされていたのだ。
インドのバラモンたちは「ヴェーダ」という神への讃歌を丸暗記している。これも口承文化というもので、文字化することは十四世紀後半まで許されなかった。そういえば日本の香道とか落語などの習得も、いまだにメモを許さない師匠は多い。丸暗記でなく、一部だけをメモして覚えるというやり方は、情報そのものが「私」の都合で歪められるからである。そして「私」の記憶はじつに驚くほど変質するのだ。
仏教では理解し、それを記憶してそのまま持つことを「総持」と云う。本来は梵語の「ダラニ」の訳だが、一部だけを「私」の都合で覚えるのではなく、総てを持つことをとても重視した。それもインドの宗教文化の伝統と云えるだろう。
我々が毎日唱えるお経というのも、そのような文化である。翻訳されたものであっても、丸暗記して唱える習慣だけは受け継がれてきた。
不思議なもので、すっかり暗記しているお経を唱えていると、まもなくいい気持ちになってくる。どうも脳波はα波になっているらしいが、そればかりでなく、そのときは我々の五感も冴えわたってくる。よく見え、すべて聞こえる状態になりつつ、しかもそれに対して一切の判断や好悪の感情を持たないのだ。
読経の最中になにか考えると必ず間違う。お経の内容についても、だから唱えているときは考えない。考える主体はむろん「私」である。好き嫌いを感じるのも「私」。ということはつまり、丸暗記しているお経を唱えはじめると、「私」がなくなってしまうということではないか。じつはそのことこそ、「お彼岸」の本質的な意味なのである。
「苦」を感じる主体も「私」だが、お釈迦さまはこの「私」を目覚めさせる「行(サンスカーラ)」をとにかく瞑想によって滅尽せよと、繰り返し説かれた。瞑想には鍛練が要るが、じつは丸暗記したお経を唱えることでも簡単に同じ状態になれるのである。
戦前などは、丸暗記させるものが偏っていた。教育勅語や軍人勅諭、そして歴代天皇の名前など。しかし敗戦によって丸暗記という文化自体まで放棄したのは明らかに行き過ぎだったと思う。
うちの父は二度脳梗塞を起こし、二度ともお経がよめなくなった。しかしよめないながらも朝本堂に行って木魚を叩くと、暗記しているお経が出てきたがるのだろう。丸暗記したものは脳内に遍満しているらしいから、その記憶が出口を求めるうちにやがてお経が口の端にのぼり、またすっかりよめるように恢復した。思えば中学二年生で脳梗塞になった小椋佳さんの息子さんも、恢復のきっかけは丸暗記していた父親の歌だった。小椋さんが枕元で歌うのを聞きながら、一緒に歌おうとする記憶そのものが、血流に突破口を開いたのだろう。
なにも私は、脳梗塞の治療にいいから丸暗記しようと勧めるわけではない。とにかく一定時間、唱える時間がつくれるくらいの長さのものを暗記すれば、それを再生する時間は全く日常とは別次元の時間になると、申し上げたいのである。「私」がいなくなるのだからそこには争いも矛盾もストレスもない。自分の口から出る響きそのものに耳を傾け、「今」という瞬間だけに意識を置きつづける。その流れない時間こそが台風の目のように、無風で晴れわたった心を作りだすのである。
暗記するのは何でもいいのだが、どうせなら『般若心経』などどうだろう。意味も解らず暗記するのは嫌だという現代人のために、私は最近『現代語訳 般若心経』(ちくま新書)という本を出した。これは「空」をテーマにした哲学的お経でもあるが、じつはその実践のため、丸暗記して唱えるべき呪文でもあったのである。
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