日曜論壇 目次
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第37回 「情報」という名の幽霊
第36回 死ねる病院はどこ?
第35回 墓地共用のすすめ
第34回 花散らぬ、嵐
第33回 七転び八起き
第32回 まもなくクランク・アップ
第31回 新作『阿修羅』のこと
第30回 さまざまな立場
第29回 生物多様性と多文化共生
第28回 団子と頭痛
第27回 さまざまな正月
第26回 金風
第25回 お寺のゴミの問題
第24回 私は裁きません!
第23回 なんのための改名か!
第22回 新しい郵便局にお願い
第21回 未然防止策?
第20回 奈落の月
第19回 ちょっと待って!
第18回 若冲展に思う
第17回 嗜好品という文化
第16回 約束
第15回 母から子への手紙
第14回 無鉄砲と、鉄砲
第13回 「小学校英語」必修化に反対!
第12回 木瓜と認知症
第11回 「満」と数え年
第10回 いくつもの春
第9回 ネコとヒトの教育
第8回 電話の電話、郵便の郵便
第7回 同期の不思議
第6回 御朱印コレクション
第5回 自燈明
第4回 帰りなん、いざ!
第3回 ウォーキング・サピエンス
第2回 形而上的おぼん
第1回 タケノコ狩りと自立
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庭先に木瓜
(
ぼけ
)
が、みごとに赤く咲いている。木瓜の花の、無邪気で爛漫な様子は、以前はどうしても「痴呆症」を想起させた。痴呆症を「ボケ」と呼んだとき、人はやはりこの花を想い描いたのではないかと、疑いなく思えたものだ。つまり多少のトゲはあるものの、それは人を明るくする無邪気さに溢れていた。
ところがこのところ、この病態は「認知症」と呼ばれることになったらしい。
ボケてくれれば突っ込みもできるが、これでは全くとりつく島がない。認知不全症というならともかく、認知症では意味も通じないではないか。
以前、分裂病が統合失調症と改名されたときは、「むむむ」と唸って感心したものだ。もともと一つのものが分裂したのではなく、八百万的な自分が統合しきれない状態だというのだから、これは認識としても優れている。ああ、見事な命名をしたものだと、感銘を受けたのである。
しかし大抵の場合、こうした命名については感心するよりがっかりすることのほうが多い。いや、がっかりどころか、今回の認知症などは認めようがない。
これは例えば、呼吸に問題がある症例を呼吸症と呼び、色弱や色盲などを色素認知症と呼ぶことに等しい。はっきり云えば、日本語に対する冒涜であるだけでなく、そこには欺瞞さえ感じる。つまり表現上の刺激を減らそうとするだけで、そこには却って底意地の悪い差別を感じるのである。
思えば、本来の日本語に具わっていた深い認識や愛情を感じ取れないまま、安易に差別語にされ、無惨な表現に変えられてしまった言葉は多い。たとえば「びっこ」。本来これは「跛行
(
びつこう
)
」だから、傾いて歩く状態を指す。何らかの原因が取り除かれれば復元することが容易に推測できるのである。「めくら」も同じく、現在視界がはっきりしないだけで、これも現状を表現したに過ぎないのである。
ところが、差別はやめようと浅知恵を働かせて考えたのは「歩行障害」と「視覚障害」。しかも多くの場合、これは「○○障害者」という人そのものへの表現になる。
「障碍(礙)」ならまだ分かる。「碍(礙)子」が電流を妨げる物体であるように、今妨げになっているものも、やがては取り除かれるはず、という思いがそこには無意識に込められているからだ。
しかし「障害」はイケナイ。「害された」というのは、なんだか決定的なイメージを植え付ける言葉だ。純粋に言葉として見るなら、「びっこ」や「めくら」のほうが余程差別性は薄いのである。
こうした奇妙な言い換えの例は、ほかにもたくさんあるのだが、今回の「認知症」だけはちょっと耐えられない。
なにも私は、「認知症」の人々を貶めるつもりではない。純粋に言葉の問題として受けとめていただきたい。
以前、有吉佐和子さんが「認知症」の人について『恍惚の人』という小説を書いた。恍惚は本来、『老子』に登場する分別以前の渾沌たる状況のことだから、悪くない命名である。しかし今更これが一般化することも期待できない。
誰かもっとちゃんとした表現を考えてくれないだろうか。
福島民報 2006年 5月 14日 日曜論壇