毎年、猪苗代町が主催する「母から子への手紙」コンテストの審査に関わっている。これはアメリカ留学中だった野口英世に宛てて書かれた母シカさんの手紙に因み、母が子を想う切々たる慈愛の気持ちを現代日本で掘り起こしたい、という主旨の募集なのだろうと思う。
 今年で五回目になるのだが、アメリカや韓国、ブラジルなど海外からのものも含め、毎年千通を超える応募がある。
 我々選考委員は、最終選考に残った約五十通ほどの手紙を読むだけなのだが、それでも毎年泣けてしまう手紙が何通もある。
 原稿用紙一枚で、よくもこれだけの内容が書けるものだと毎年驚くのだが、今年もむろん例外ではなかった。
 こうした温かい手紙を読んでいると、つい世間には優しく慈愛に満ちた母親ばかりのように思い込みそうになる。しかし事態はむしろ逆なのかもしれない。社会にあまりに母性が欠如しているからこそ、こうした応募が盛んなのかもしれない。そのような関係は、「補償的」な関係と呼ばれる。
 たとえば社会があまりに合理性を追求するがゆえに、非合理な「霊」を扱う霊能者がはやる。あるいは「男女七歳にして席を同じうせず」というような倫理が喧伝されたのも、それほどに当時の社会が乱れていたからと、そこに補償的な関係を読み取るべきなのである。
 たしかに学校の現場を眺めると、たとえば校内暴力なども低年齢化しており、中学高校では減っているのに小学校では増えている。しかも小学生の校内暴力に占める対教師暴力の割合は、三年連続で三割を超えたという。
 もっとも、いじめによる自殺なども、統計上は五年間皆無と報告されてきたわけだから、この数字もアテにはならない。しかしアテにならないとしても、その数字は上方修正される可能性のほうが強いということだ。
 ジャーナリストの奥野修司氏の報告によれば、今の小学校で教師に求められているのは母性だという。父親型の教師が叱りつけて教えても聞いてはくれず、かえって学級崩壊を促すだけ。むしろ母親のように優しく耳を傾け、子供と一緒に考え、というタイプでないと、学級運営ができないというのだ。
 そうなった原因には、むろん父親が普段叱らないという家庭での現状があるが、それよりも母親の「おんぶ」「だっこ」「授乳」などによる「優しさの体験」が欠如しているため、発語以前のベイシックトラスト(基本的信頼)が出来上がらないのではないか、という専門家の指摘もある。
 少しでも自分の時間がほしい母親が、できるだけ早くから、長時間子供を預かってくれる保育園に殺到している。行政も基本的にはそれを援助する方針である。
 しかしそのことのツケは、すでに幼児教育段階で現れていると、奥野氏は指摘している。江戸川区の幼稚園を例にとり、父に叱られず、母に愛されない三歳児が教室を崩壊させるさまを、園長先生の話で報告している(「文藝春秋」十二月号)。
 難しい問題だからこれ以上は立ち入らないが、ここで申し上げたいのは、母性がもてはやされる現象と母性の欠如した現実との、補償的な関係のことだ。補償的というのは、バランスのためにどうしても必要だ、ということだ。そういうわけなので猪苗代町の町長さん、関係者の皆さん、この事業は続けてくださいね。

福島民報 2006年 11月 19日 日曜論壇
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